今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第2節
後部座席に安寿とクルルを乗せて、航志朗は車を発進させた。バックミラーに映る安寿とクルルはすっかり打ち解けた様子で微笑み合っていた。
マンションに到着すると、航志朗はクルルを玄関の隣にある書斎に案内した。
「この部屋、少し狭いけど自由に使ってくれて構わない。俺の亡くなった祖父の執務室だったんだ」
クルルは古いデスクと何も置かれていない壁一面の造り付け本棚をひと通り見てから、伊藤が用意した簡易ベッドに腰掛けて言った。
「コウシロウ、ありがとう」
その言葉に航志朗は心底驚いた。
(あのクルルが初めて礼を言った……)
安寿はリビングルームを見回した。カーペットの上には水色のビニールシートがまんべんなく敷かれていて、ダイニングテーブルには透明なビニールクロスが掛けられている。
(アトリエみたい。ここで一週間も絵を描けるんだ。……彼のそばで)
キッチンで湯を沸かしはじめた航志朗を見て、安寿は心からあふれ出るほどに嬉しさがこみあげてきた。安寿はうつむいて顔をほころばせた。
ふと腕時計を見た安寿は急に思いついて、航志朗に言った。
「航志朗さん、私、お買い物に行って来ます。今夜の夕食や明日の朝食の食材を用意しないと」
「いや、その必要はない。今朝も言ったけど、君はいっさい家事をやらなくていい。俺が全部やるから君は制作に集中しろ。いいな、安寿」
安寿は申しわけなさそうに言った。
「でも……」
「妻だから家事をしなければならないと俺は思わない。安寿、これからは手が空いていて、適宜できるほうが家事をするということにしないか。もしくは一緒にやろう。そのほうがお互い気が楽だし、楽しいだろ?」
航志朗は安寿の顔を微笑みながらのぞき込んだ。
「……わかりました」
その時、安寿は身を切るほどに思い知らされた。
(航志朗さんて本当に理想的な夫なんだ。こんな私にはもったいない。やっぱり、私は彼にふさわしくない)
思わず胸がきしんで安寿はうつむいたが、今は目の前のやるべきことに取りかかろうと自分を奮い立たせた。
安寿はダイニングテーブルにスケッチブックを広げて、いろいろなパターンの牛の絵を描き始めた。ときどき首を伸ばして天井を見上げる。クルルが書斎からやって来て、安寿の隣に座った。少し躊躇しながら安寿はクルルに牛の絵を見せて訊いた。
「クルル、牛の絵はこんな感じでいいかな?」
スケッチブックを手に取るとクルルは目を大きく見開いた。クルルは興奮したかのように何回も大きくうなずいて言った。
「アンジュ、君は本当に力強くて美しい絵を描くな……」
クルルの言葉に安寿はひとまず安心した。
安寿はアクリル絵具を少量の水でのばし、牛のデッサンの余白に様々なブラウン系統の色を塗ってカラー見本をつくった。
「クルル、色はどれがいい? それから、水彩画のように淡く塗る? それともマットに塗る? アクリル絵具はどんな表現でも自由自在にできるから」
たどたどしい英語になってしまい、安寿が紅茶を淹れて持って来た航志朗を困ったように見上げると、航志朗がすぐに翻訳した。
クルルは安寿の目を見てはっきりと言った。
「アンジュの心の思うままに描いてほしい。僕は君が自由に描く絵が見たい」
安寿はその言葉の意味がわからなかった。横から航志朗が安寿の肩に手をそっと置きながら、安寿の耳元で優しくささやくように翻訳した。安寿は目を潤ませてクルルに向かって大きくうなずいた。画筆を握りしめて、安寿ははちきれるような笑顔になった。
(私の絵を必要としてくれるひとがここにもいる!)
いきなり安寿の目の色が変わった。クルルは心底驚いて航志朗を見上げた。航志朗は腕を組んでにやにやと笑っている。猛烈な勢いで安寿はスケッチブックに牛の絵を描き出した。
午後五時すぎに、伊藤が大鍋と大きなバッグを持ってマンションにやって来た。鍋の中には鶏肉のホワイトシチューが入っていた。大きなタッパーの中には野菜のサラダや煮物が詰められている。もちろん咲の手料理だ。ご飯とパンも用意されていた。伊藤は夕食を丁寧にシステムキッチンに並べてから、ダイニングテーブルで一心に絵を描く安寿の姿を見て微笑んだ。
窓の外が暗くなってきた。航志朗とクルルは順番で風呂に入った。その間もずっと安寿は絵を描いていた。クルルは尋常ではない安寿の集中力に驚異を感じ始めていた。
「おい、コウシロウ。アンジュは休憩しなくて大丈夫なのか? まだ初日なのに」
航志朗は苦笑いして言った。
「まあ、俺たちは彼女を見守るしかないよな」
航志朗とクルルはキッチンに立って夕食をとった。
マンションに到着すると、航志朗はクルルを玄関の隣にある書斎に案内した。
「この部屋、少し狭いけど自由に使ってくれて構わない。俺の亡くなった祖父の執務室だったんだ」
クルルは古いデスクと何も置かれていない壁一面の造り付け本棚をひと通り見てから、伊藤が用意した簡易ベッドに腰掛けて言った。
「コウシロウ、ありがとう」
その言葉に航志朗は心底驚いた。
(あのクルルが初めて礼を言った……)
安寿はリビングルームを見回した。カーペットの上には水色のビニールシートがまんべんなく敷かれていて、ダイニングテーブルには透明なビニールクロスが掛けられている。
(アトリエみたい。ここで一週間も絵を描けるんだ。……彼のそばで)
キッチンで湯を沸かしはじめた航志朗を見て、安寿は心からあふれ出るほどに嬉しさがこみあげてきた。安寿はうつむいて顔をほころばせた。
ふと腕時計を見た安寿は急に思いついて、航志朗に言った。
「航志朗さん、私、お買い物に行って来ます。今夜の夕食や明日の朝食の食材を用意しないと」
「いや、その必要はない。今朝も言ったけど、君はいっさい家事をやらなくていい。俺が全部やるから君は制作に集中しろ。いいな、安寿」
安寿は申しわけなさそうに言った。
「でも……」
「妻だから家事をしなければならないと俺は思わない。安寿、これからは手が空いていて、適宜できるほうが家事をするということにしないか。もしくは一緒にやろう。そのほうがお互い気が楽だし、楽しいだろ?」
航志朗は安寿の顔を微笑みながらのぞき込んだ。
「……わかりました」
その時、安寿は身を切るほどに思い知らされた。
(航志朗さんて本当に理想的な夫なんだ。こんな私にはもったいない。やっぱり、私は彼にふさわしくない)
思わず胸がきしんで安寿はうつむいたが、今は目の前のやるべきことに取りかかろうと自分を奮い立たせた。
安寿はダイニングテーブルにスケッチブックを広げて、いろいろなパターンの牛の絵を描き始めた。ときどき首を伸ばして天井を見上げる。クルルが書斎からやって来て、安寿の隣に座った。少し躊躇しながら安寿はクルルに牛の絵を見せて訊いた。
「クルル、牛の絵はこんな感じでいいかな?」
スケッチブックを手に取るとクルルは目を大きく見開いた。クルルは興奮したかのように何回も大きくうなずいて言った。
「アンジュ、君は本当に力強くて美しい絵を描くな……」
クルルの言葉に安寿はひとまず安心した。
安寿はアクリル絵具を少量の水でのばし、牛のデッサンの余白に様々なブラウン系統の色を塗ってカラー見本をつくった。
「クルル、色はどれがいい? それから、水彩画のように淡く塗る? それともマットに塗る? アクリル絵具はどんな表現でも自由自在にできるから」
たどたどしい英語になってしまい、安寿が紅茶を淹れて持って来た航志朗を困ったように見上げると、航志朗がすぐに翻訳した。
クルルは安寿の目を見てはっきりと言った。
「アンジュの心の思うままに描いてほしい。僕は君が自由に描く絵が見たい」
安寿はその言葉の意味がわからなかった。横から航志朗が安寿の肩に手をそっと置きながら、安寿の耳元で優しくささやくように翻訳した。安寿は目を潤ませてクルルに向かって大きくうなずいた。画筆を握りしめて、安寿ははちきれるような笑顔になった。
(私の絵を必要としてくれるひとがここにもいる!)
いきなり安寿の目の色が変わった。クルルは心底驚いて航志朗を見上げた。航志朗は腕を組んでにやにやと笑っている。猛烈な勢いで安寿はスケッチブックに牛の絵を描き出した。
午後五時すぎに、伊藤が大鍋と大きなバッグを持ってマンションにやって来た。鍋の中には鶏肉のホワイトシチューが入っていた。大きなタッパーの中には野菜のサラダや煮物が詰められている。もちろん咲の手料理だ。ご飯とパンも用意されていた。伊藤は夕食を丁寧にシステムキッチンに並べてから、ダイニングテーブルで一心に絵を描く安寿の姿を見て微笑んだ。
窓の外が暗くなってきた。航志朗とクルルは順番で風呂に入った。その間もずっと安寿は絵を描いていた。クルルは尋常ではない安寿の集中力に驚異を感じ始めていた。
「おい、コウシロウ。アンジュは休憩しなくて大丈夫なのか? まだ初日なのに」
航志朗は苦笑いして言った。
「まあ、俺たちは彼女を見守るしかないよな」
航志朗とクルルはキッチンに立って夕食をとった。