今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 それから二日間が過ぎて水曜日になった。昨日の午前中に安寿はすべての下書きを描き終えた。航志朗とクルルは心の底から驚嘆して言葉を失った。百枚の牛の絵を制作するはずが、安寿は予備として用意してきたタイル五十枚にまで下書きを描いてしまった。安寿の画筆は止まらなかった。アイスランドから持って来た百五十枚のタイルすべてに下書きを描き尽くした。

 リビングルームに敷かれた水色のビニールシートの上にはタイルに描かれた百五十頭の線描の牛が横たわり、色付けされるのを待っている。昨日の昼食後、安寿は猛然と着色をし始めた。安寿は指先を真っ茶色に染めて、次々に色を塗っていった。頬にも絵具が飛んだが、安寿の画筆は止まらない。苦笑いしながら航志朗は湯を含ませたタオルで安寿の頬をぬぐった。

 その深夜、航志朗は気づいた。安寿は線画を描くのは早いが、着色するのは遅筆だということに。だが、半日で安寿は十五枚仕上げた。このペースでいけば、金曜日までに百枚完成するはずだ。航志朗とクルルは土曜日の夜のフライトでアイスランドに戻る。来週の月曜日から始まる美術館の内装工事に間に合うだろう。航志朗もクルルもひとまず安堵した。

 午前二時を過ぎてから今夜も安寿と航志朗はベッドの上で離れて横になった。まったく疲れた様子を見せない安寿に航志朗はひどく心配になっていた。大学入学前の春休み中だとはいえ、安寿に無理をさせてしまっている。よく見ると、安寿の指先は石鹸でよく洗っても落としきれないアクリル絵具が爪の中にまでこびりついている。たまらずに航志朗は安寿を抱き寄せた。眠りに落ちかけていた安寿だったが、航志朗の腕の中で微笑みながら彼を見上げた。

 安寿の健気な笑顔にどうしようもなく胸が締めつけられて、航志朗は顔をしかめながら尋ねた。

 「安寿、大丈夫なのか?」

 「大丈夫?」

 不思議そうに安寿は訊き返した。

 「ずっと絵を描いていて疲れてきたんじゃないのか? 俺は君の身体がとても心配だ」

 安寿はくすくす笑って航志朗の胸にぎゅっとしがみついた。航志朗は思いもよらないその感触に胸が高く弾んだ。

 安寿はゆっくりとした口調でとぎれとぎれに言った。

 「私、愉しいんです。今、とっても」

 「愉しい?」

 航志朗は戸惑った。まったくわけがわからない。

 「はい。だって、ずーっと絵を描いていられるから。こんなの初めてです。勉強しなくていいし、宿題だってないし、それに食事の支度をしなくていいし、掃除だって洗濯だって。航志朗さんが私のパンツまできちんとたたんでくれるし」

 それを聞いて航志朗は赤くなった。

 安寿は目を閉じて言った。

 「私、今、愉しいんです、とても、とても。それに、航志朗さんと一緒に……」

 そう安寿は言いかけて眠ってしまった。航志朗は目を細めて安寿の寝顔を見つめた。航志朗は身体じゅうをこがす想いで胸がいっぱいになった。安寿を思いきり抱きしめたいが、今は我慢しなければならない。航志朗は大声をあげて安寿に「君を愛している」と叫びたくなったが小声にとどめた。

 その夜、航志朗はなかなか寝つけなかった。寸止めで安寿に寄り添って、安寿の寝顔をずっと見つめていた。

 航志朗はひとりごとのようにつぶやいた。

 「彼に会いに行かないとな……」

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