今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
木曜日の朝、朝食を用意した航志朗は、牛の絵が描かれたタイルを手に持って楽しそうに話をしている安寿とクルルに言った。
「今日、俺は用事があるから出かけてくる。夕方には戻る。昼食は伊藤さんが届けてくれるから」
航志朗は珍しくスーツを着てきちんとネクタイを締めて、どこかへ出かけて行った。安寿は何か仕事があるのかもしれないと思って、特に何も問わず気にも留めなかった。
航志朗は地下鉄に乗って、『菓匠はらだ』の本店に行った。全国展開で手広く商売をしている有名老舗和菓子店の割には、意外にこじんまりとした質素な店だった。店構えは年季が入っていてよく手入れされている。開店したばかりの店内には、すでに大勢の客たちが季節の上生菓子や菓子折りを買い求めに来ていた。航志朗も店内に入ってナラの無垢材で作られた古めかしいガラスのショーケースの中を興味深く眺めながら順番を待った。
そこへ店の奥から華やかな四季折々の花が描かれた撫子色の訪問着を着た若い女が入って来た。店の女性従業員たちは色無地の青竹色の揃いの着物を着ている。従業員たちは彼女を「若女将」と呼んでちやほやしてその着物姿を褒めているが、当の若女将は愛想悪く仏頂面をしている。
突然、航志朗は思い当たった。
(あの「若女将」って、安寿の友人じゃないのか)
「若女将」の莉子と航志朗の目が合った。莉子は一瞬驚いたように両目を大きく見開いた。だが、次の瞬間には笑顔になって、莉子は航志朗に大きく手を振って大声で言った。
「岸さんですよね。安寿ちゃんのだんなさまの。いらっしゃいませ!」
店内にいた客と従業員がいっせいに航志朗の姿を見た。そのあっけらかんとした天真爛漫な様子に航志朗は笑ってしまった。
(いかにも、安寿の仲良しの友人って感じだな)
草履を履いた莉子は歩きづらそうだが小走りで航志朗の近くにやって来た。莉子はきょろきょろと航志朗の周りを見回して言った。
「安寿ちゃんは、ご一緒じゃないんですか?」
航志朗は苦笑いしながらうなずいて莉子に言った。
「ときどきこちらのお菓子を手土産に利用させてもらっているよ。羽田空港や成田空港の中にもお店があるよね?」
莉子は顔をしかめて言いづらそうに低い声で言った。
「それはありがとうございます。でも、空港やデパートに入っている店は伯父の店なんです。父の兄の。それに、そこで売っているお菓子は工場でつくられた大量生産の商品なんですよ」
莉子の真正直さに『菓匠はらだ』の裏事情をなんとなく理解した航志朗は、優しいまなざしで莉子を見つめた。思わず莉子はどきどきしてしまった。そして、航志朗は莉子から上生菓子を買い求めた。
別れ際に航志朗は莉子に名刺を渡しながら言った。
「いつもありがとう。大学でも安寿のことよろしくね。ええと……」
莉子はあわてて一生懸命に可愛らしく言った。
「私、原田莉子と申します。安寿ちゃんみたいに『莉子ちゃん』って呼んでくださいね!」
航志朗は微笑みながら言った。
「ではまた、莉子ちゃん」
莉子は満足そうに笑って手を振った。航志朗を見送ると莉子は心底思った。
(岸さんって、ものすごくかっこいい! それになんて優しい目をしているの。私、ああいう兄貴が欲しかったな……)
莉子は店のショーケースの中に上生菓子を補充している次兄をちらっと見て深いため息をついた。そして、莉子は確信めいたものを感じて、両手のこぶしを胸の前で握りしめた。
(岸さんに二股かけられているなんて絶対にありえないよ、安寿ちゃん!)
「今日、俺は用事があるから出かけてくる。夕方には戻る。昼食は伊藤さんが届けてくれるから」
航志朗は珍しくスーツを着てきちんとネクタイを締めて、どこかへ出かけて行った。安寿は何か仕事があるのかもしれないと思って、特に何も問わず気にも留めなかった。
航志朗は地下鉄に乗って、『菓匠はらだ』の本店に行った。全国展開で手広く商売をしている有名老舗和菓子店の割には、意外にこじんまりとした質素な店だった。店構えは年季が入っていてよく手入れされている。開店したばかりの店内には、すでに大勢の客たちが季節の上生菓子や菓子折りを買い求めに来ていた。航志朗も店内に入ってナラの無垢材で作られた古めかしいガラスのショーケースの中を興味深く眺めながら順番を待った。
そこへ店の奥から華やかな四季折々の花が描かれた撫子色の訪問着を着た若い女が入って来た。店の女性従業員たちは色無地の青竹色の揃いの着物を着ている。従業員たちは彼女を「若女将」と呼んでちやほやしてその着物姿を褒めているが、当の若女将は愛想悪く仏頂面をしている。
突然、航志朗は思い当たった。
(あの「若女将」って、安寿の友人じゃないのか)
「若女将」の莉子と航志朗の目が合った。莉子は一瞬驚いたように両目を大きく見開いた。だが、次の瞬間には笑顔になって、莉子は航志朗に大きく手を振って大声で言った。
「岸さんですよね。安寿ちゃんのだんなさまの。いらっしゃいませ!」
店内にいた客と従業員がいっせいに航志朗の姿を見た。そのあっけらかんとした天真爛漫な様子に航志朗は笑ってしまった。
(いかにも、安寿の仲良しの友人って感じだな)
草履を履いた莉子は歩きづらそうだが小走りで航志朗の近くにやって来た。莉子はきょろきょろと航志朗の周りを見回して言った。
「安寿ちゃんは、ご一緒じゃないんですか?」
航志朗は苦笑いしながらうなずいて莉子に言った。
「ときどきこちらのお菓子を手土産に利用させてもらっているよ。羽田空港や成田空港の中にもお店があるよね?」
莉子は顔をしかめて言いづらそうに低い声で言った。
「それはありがとうございます。でも、空港やデパートに入っている店は伯父の店なんです。父の兄の。それに、そこで売っているお菓子は工場でつくられた大量生産の商品なんですよ」
莉子の真正直さに『菓匠はらだ』の裏事情をなんとなく理解した航志朗は、優しいまなざしで莉子を見つめた。思わず莉子はどきどきしてしまった。そして、航志朗は莉子から上生菓子を買い求めた。
別れ際に航志朗は莉子に名刺を渡しながら言った。
「いつもありがとう。大学でも安寿のことよろしくね。ええと……」
莉子はあわてて一生懸命に可愛らしく言った。
「私、原田莉子と申します。安寿ちゃんみたいに『莉子ちゃん』って呼んでくださいね!」
航志朗は微笑みながら言った。
「ではまた、莉子ちゃん」
莉子は満足そうに笑って手を振った。航志朗を見送ると莉子は心底思った。
(岸さんって、ものすごくかっこいい! それになんて優しい目をしているの。私、ああいう兄貴が欲しかったな……)
莉子は店のショーケースの中に上生菓子を補充している次兄をちらっと見て深いため息をついた。そして、莉子は確信めいたものを感じて、両手のこぶしを胸の前で握りしめた。
(岸さんに二股かけられているなんて絶対にありえないよ、安寿ちゃん!)