今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 航志朗は東京駅で乗り換えて鎌倉に向かった。鎌倉駅には迎えの黒塗りの車が来ていた。航志朗は運転手にあいさつして車に乗り込んだ。

 急な切通しを通り閑静な森の中に入った。そこには岸邸など比べようもない大邸宅が構えてあった。華鶴の実家、黒川家の本宅である。玄関のエントランスの前には見覚えがある腰がまがった高齢の執事が待ち構えていた。

 航志朗は子どもの頃、母に連れられて何度かこの邸宅を訪れていた。黒川家の祖母は航志朗が生まれる前に亡くなっていたが、当時、祖父は存命だった。祖父はいつも和服をまとっていて煙草をふかしていた。頭をなでてくる祖父の細長い指と爪は黄ばんでくすんでいた。祖父の広い書斎の壁や天井は煙草のヤニで茶色く汚れ、吐き気がする匂いがした。黒川家の祖父は片手間で著述業をしていたらしい。母に直接訊いたことがないので真偽のほどは定かではないが、祖父の書斎の机の上にはいつも原稿用紙が積み重なっていた。うんざりするほど乱雑に。

 「航志朗さま、ようこそおいでくださいました。当主がお待ちかねでございます」

 深いしわを眉間に刻んだ執事は慇懃に深々とお辞儀をした。

 航志朗はうなずくと、少し緊張した面持ちで黒川家に上がって行った。延々と続く磨き込まれた長い廊下を通って、航志朗は中庭に面した広間に通された。見覚えがある部屋だ。茶道の師範だった伯父に、その一人息子である八歳年上の従兄と一緒に手ほどきを受けたことがある。

 久々に航志朗は思い出した。伯父も従兄も笑ったところを見た記憶がない。いつも無表情で何を考えているのかさっぱりわからなかった。伯父と従兄とは岸家の祖父の葬式以来会っていない。伯父は航志朗がイギリスに渡った後に他界した。岸家の裏の森は伯父から従兄へと当然のごとく相続されたが、その頃すでに従兄は鎌倉の邸宅を出ていた。従兄は京都の大学に進学して以来、ずっと彼の地に在住していると伊藤から聞いていた。

 そのだだっ広い広間には、まだ張り替えたばかりらしい真っ白な襖がぐるりと取り囲んでいた。航志朗はあまりにも無機質に漂白されたような襖に神経を逆なでされるような感覚におちいった。

 広間の畳の上で従兄の黒川皓貴が二つ折りにした座布団を枕にして寝そべっていた。久しぶりにその姿を見る従兄は、その真っ白い襖をぼんやりと眺めていた。

 航志朗は廊下に正座して声をかけた。

 「皓貴さん、大変ごぶさたしております」

 黒川は横になったまま振り返って言った。

 「ああ、航志朗くん、久しぶりだね」

 航志朗は正座したまま両手をついてお辞儀をした。その航志朗の態度を見て、黒川は冷淡に言った。

 「航志朗くん、そんなかしこまったあいさつは必要ないよ。だって、僕らは二十一世紀を生きているんだからね。楽にしてくれ。祖父も父も、もうとっくにここにはいないんだから」

 だが、航志朗は正座したままだ。黒川は気だるそうに起き上がって言った。

 「世界中を飛び回って多忙な君が、わざわざこんなところまで僕にあいさつしに来た理由はわかっているよ。それは二つある。そうだね?」

 航志朗はうなずいた。すべて見透かされていると航志朗の背中に戦慄が走った。

 「それにしても、君はいい男になったじゃないか。さぞかし周りの女たちがうるさいだろうね。その結婚指輪は女除けの護符かな」

 航志朗の左手の薬指を黒川は冷ややかに一瞥した。

 黒川は素っ気なく話し始めた。

 「さて、一つ目は、あの岸家の裏にある森のことだろう? 岸家が代々受け継いできたという。まあ、君の一族にとっての『鎮守の森』といったところなのかな」

 姿勢を正した航志朗は黒川をまっすぐに見て言った。

 「皓貴さん、単刀直入にお尋ねいたします。あの森を私にいかほどで売っていただけますでしょうか?」

 一瞬、黒川は眼光を鋭くさせたが目を細めて微笑んだ。航志朗は全身をぞっとさせて思った。

 (彼は笑っていない。ただ機能的に目尻にしわを寄せているだけだ)

 黒川は軽い口調で言った。

 「二千億。いや、もっとかな」

 航志朗は絶句した。

 追い打ちをかけるように黒川が言った。

 「だって、僕の父は、年の離れた可愛い妹のために岸家にかなりの援助をしたと聞いているよ。岸家の君のおじいさまが亡くなった時だけじゃなくて、たびたびね。二千億でも足りないんじゃないの」

 愉しそうな表情を浮かべて黒川は続けた。

 「でも、僕だって血をわけた従弟にいじわるするつもりはないよ。別に金に困っているわけじゃないしさ。それにあの森を先日初めて見て来たけど、なんの価値も見い出せなかった。まあ、僕にとっては取るに足らないどうでもいい資産だな」

 冷たい汗が背筋を流れたことを航志朗は意識した。

 「だからさ、航志朗くんにご提案があるんだ。聡明な君なら想定範囲内だろう?」

 航志朗の心臓がどくんと重低音で鳴った。

 「君の妻とあの森を交換するっていうのは、どうかな?」

 そう言うと、黒川は薄ら笑いを浮かべた。

 その瞬間、心の底からわきあがってきた憎悪が航志朗を襲ったが、表面上は冷静さを保った。

 「どういうことですか? 私にはまったくおっしゃる意味がわかりませんが」

 「あの森に行った時、彼女に会ったんだよ。安寿さんだっけ? なかなか面白そうな女の子だね。可愛い顔をしているから思いきり抱きしめてあげたけど。航志朗くん、君さ、まだ彼女に手を出していないだろ。わかるよ。なんだかわけありの結婚みたいだね、君たちは」

 航志朗は何も答えられない。黙り込んだまま黒川をただ見すえた。

 「まあ、とにかく華鶴おばさまから聞いたと思うけれど、清美大で君の妻をたくさん可愛がってあげるから、ご安心を。そのお願いだろ? 僕に会いに来た二つ目の理由は」

 黒川は手を伸ばして航志朗の隣に置いてあった菓子折りを開けて、中から桜の花びらをかたどった上生菓子をつまんで口に入れた。

 「ふうん。この菓子、悪くないね。ああ、京都が懐かしいよ。もうしばらくいるつもりだったんだけど、追い出されちゃったから仕方がないよね」

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