今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
次の朝、航志朗が目覚めると腕の中にぐっすりと眠った安寿がいた。航志朗は心から安堵した。思わず安寿の顔に何回もキスしてしまった。いきなり安寿は航志朗の目の前でぱちっと目を開けた。
航志朗は照れくさそうに笑って言った。
「ごめん、安寿。起こした」
安寿は航志朗に微笑んだ。そして、すぐに起き上がって両腕を天井に向かって伸ばした。
「私、さっそく絵の続きを描きます。航志朗さん、朝食の支度をお願いします」
ベッドから立ち上がろうとする安寿を航志朗は横からきつく抱きしめた。
「だめだ。もっと、こうしていたい」
甘えるように腰にしがみついてきた航志朗の髪を安寿は優しくなでた。安寿は胸の奥をすくいとられるような不思議な気持ちになった。
(なんだろう、この感じって。今の彼は私の夫というよりも、なんだか私の子どもみたい)
あと残り十枚を切った。安寿はリビングルームの床に敷かれてあるビニールシートの上に並べた九十頭の牛たちを見た。だが、そのかたすみには、まだ線描だけの五十頭の牛たちがいる。安寿は時計を見た。もうすぐ正午だ。依頼されたタイル百枚は今日中に完成するだろうが、何か心残りを感じずにはいられない。右隣には航志朗が座ってノートパソコンを繰って英文の論文を執筆している。目の前にはクルルがやはりノートパソコンを開いて熱心に何かを打ち込んでいる。
突然、安寿は航志朗の左腕を両手で強く握りしめた。航志朗は一瞬驚いた表情になったが、すぐに右手をそっと安寿の手に重ねて尋ねた。
「安寿、どうした?」
クルルも顔を上げて安寿を見た。
「あの、私、予備の五十枚にも着色して絵を完成させたいです。このままだと中途半端な気がするし、後悔しそうなんです」
航志朗は少し考えてから言った。
「君の気持ちはわかる。でも残念だけど、タイムリミットが迫っている」
「それはわかっています。でもやっぱり、私、あの五十枚のタイルも完成させたい。私にとっては予備じゃないんです。私の絵なんです」
安寿は航志朗の腕を握る力を強めた。真剣なまなざしで航志朗の琥珀色の瞳を見つめる。航志朗はまた少し考えてから笑顔になって、安寿の額に自分の額をくっつけて言った。
「わかった、安寿。クルルに相談するから、ちょっと待ってて」
航志朗とクルルは英語で話し合いはじめた。早口でまったく安寿には聞き取れない。
やがて、クルルは優しく微笑みながら安寿を見つめた。安寿はその微笑みを心から親しみ深く感じた。一週間前に出会ったばかりなのに、ずっと前から知っているような気がする。航志朗はノートパソコンを閉じてキッチンカウンターに置いた。そして、航志朗は腕まくりをして言った。
「俺が着色を手伝うよ。どのように塗ればいいか指示してくれ。クルルには許可を取った。安寿、一緒に描こう」
思わず安寿は瞳を潤ませた。安寿は航志朗とクルルに微笑みかけた。
安寿は航志朗に指示を出した。とはいっても、完成させたタイルの中から一枚持って来て、同じように塗ってほしいと言っただけだ。
航志朗はパレットの上にアクリル絵具を絞り出して画筆を取り、安寿が描いたタイルを見ながら躊躇なく塗り始めた。
初めて航志朗が絵を描いているところを見る。安寿は画筆を握った航志朗に見とれてしまった。伊藤夫妻の自宅に飾られていた十五歳の航志朗が描いた花束の油彩を安寿は思い出す。航志朗を見つめた安寿は胸を高鳴らせた。そして、とめどない想いが安寿のなかにあふれ出てきた。
(私は心から彼を愛している。今、彼が愛おしくてたまらない)
航志朗は照れくさそうに笑って言った。
「ごめん、安寿。起こした」
安寿は航志朗に微笑んだ。そして、すぐに起き上がって両腕を天井に向かって伸ばした。
「私、さっそく絵の続きを描きます。航志朗さん、朝食の支度をお願いします」
ベッドから立ち上がろうとする安寿を航志朗は横からきつく抱きしめた。
「だめだ。もっと、こうしていたい」
甘えるように腰にしがみついてきた航志朗の髪を安寿は優しくなでた。安寿は胸の奥をすくいとられるような不思議な気持ちになった。
(なんだろう、この感じって。今の彼は私の夫というよりも、なんだか私の子どもみたい)
あと残り十枚を切った。安寿はリビングルームの床に敷かれてあるビニールシートの上に並べた九十頭の牛たちを見た。だが、そのかたすみには、まだ線描だけの五十頭の牛たちがいる。安寿は時計を見た。もうすぐ正午だ。依頼されたタイル百枚は今日中に完成するだろうが、何か心残りを感じずにはいられない。右隣には航志朗が座ってノートパソコンを繰って英文の論文を執筆している。目の前にはクルルがやはりノートパソコンを開いて熱心に何かを打ち込んでいる。
突然、安寿は航志朗の左腕を両手で強く握りしめた。航志朗は一瞬驚いた表情になったが、すぐに右手をそっと安寿の手に重ねて尋ねた。
「安寿、どうした?」
クルルも顔を上げて安寿を見た。
「あの、私、予備の五十枚にも着色して絵を完成させたいです。このままだと中途半端な気がするし、後悔しそうなんです」
航志朗は少し考えてから言った。
「君の気持ちはわかる。でも残念だけど、タイムリミットが迫っている」
「それはわかっています。でもやっぱり、私、あの五十枚のタイルも完成させたい。私にとっては予備じゃないんです。私の絵なんです」
安寿は航志朗の腕を握る力を強めた。真剣なまなざしで航志朗の琥珀色の瞳を見つめる。航志朗はまた少し考えてから笑顔になって、安寿の額に自分の額をくっつけて言った。
「わかった、安寿。クルルに相談するから、ちょっと待ってて」
航志朗とクルルは英語で話し合いはじめた。早口でまったく安寿には聞き取れない。
やがて、クルルは優しく微笑みながら安寿を見つめた。安寿はその微笑みを心から親しみ深く感じた。一週間前に出会ったばかりなのに、ずっと前から知っているような気がする。航志朗はノートパソコンを閉じてキッチンカウンターに置いた。そして、航志朗は腕まくりをして言った。
「俺が着色を手伝うよ。どのように塗ればいいか指示してくれ。クルルには許可を取った。安寿、一緒に描こう」
思わず安寿は瞳を潤ませた。安寿は航志朗とクルルに微笑みかけた。
安寿は航志朗に指示を出した。とはいっても、完成させたタイルの中から一枚持って来て、同じように塗ってほしいと言っただけだ。
航志朗はパレットの上にアクリル絵具を絞り出して画筆を取り、安寿が描いたタイルを見ながら躊躇なく塗り始めた。
初めて航志朗が絵を描いているところを見る。安寿は画筆を握った航志朗に見とれてしまった。伊藤夫妻の自宅に飾られていた十五歳の航志朗が描いた花束の油彩を安寿は思い出す。航志朗を見つめた安寿は胸を高鳴らせた。そして、とめどない想いが安寿のなかにあふれ出てきた。
(私は心から彼を愛している。今、彼が愛おしくてたまらない)