今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第4節
莉子と大翔とクルルの三人は、開店前の『菓匠はらだ』の店の前に着いた。小豆の炊きあがるほっこりとしたいい香りがしてくる。
口をへの字に曲げて莉子は大翔を見上げた。地下鉄に乗った時から大翔は黙り込んでしまった。心なしか大翔の顔色が青ざめている。莉子は大翔の手をそっと握って言った。
「大翔くん、無理しなくていいよ。今日はここでバイバイしようね」
大翔はきつく目を閉じてうつむいた。
クルルがふたりの様子をうかがってから尋ねた。
「リコ、ハルトはどうしたんだ?」
莉子が英単語を並べて言った。
「ハルト、私のパパとママと会う、怖い」
首をかしげてクルルが不思議そうに訊いた。
「怖い? どうして」
莉子はジェスチャーを交えて言った。
「私とハルト、好き、秘密」
「秘密? どうしてなんだ。まったく理解ができない」
クルルは眉間にしわを寄せて腕を組んだ。大翔はうつむいたままだ。クルルは大翔の大きな背中を思いきり強く叩いて言った。
「ハルト、君はリコを本気で心から愛しているんだろう。おい、しっかりしろよ!」
突然、大翔は莉子の両手を握って大声で言った。
「莉子、結婚しよう! もちろん大学を卒業してからだけど」
「大翔くん……」
莉子は大粒の涙を両目から流して大翔に抱きついた。大翔も莉子をきつく抱きしめた。
あぜんとしたクルルが首を傾けて抱き合ったふたりに尋ねた。
「君たち、いったいどうしたんだ?」
大翔から身体を離して莉子は叫ぶように言った。
「大翔くんが、今、私にプロポーズしたの!」
涙で顔をくしゃくしゃにさせながら、莉子はクルルに思いきり抱きついた。クルルは顔を赤くしながら莉子の背中にそっと手を回して祝福した。
「そうか、よかったな。おめでとう、リコとハルト」
莉子は両手で大翔とクルルの手を勢いよく引いて店の脇の道を奥へと進んで行き、莉子の家の中に入って行った。
毛布の中で航志朗の存在に安らぎを感じながら、安寿は目を開けた。目の前に航志朗ののどぼとけが見えた。安寿は手を伸ばしてそれにそっと触れた。航志朗はぐっすりと気持ちよさそうに眠っている。安寿は泣き出しそうになる自分を必死になって抑えた。
(ずっと彼と一緒にいたい。でも、それは絶対に許されない)
安寿は航志朗の胸に顔を寄せてその匂いと温もりを身体じゅうで感じた。そして、安寿は自分の胸に手を当てた。早鐘を打ってどきどきしている。またここに触れてほしいと思ってしまう。安寿は顔を赤らめながら、目を閉じた航志朗の顔を見つめた。
やがて、航志朗が目を開けてしっかりと安寿を見た。安寿は精いっぱい航志朗に微笑んだ。航志朗はぎゅっと安寿を抱きしめて言った。
「安寿、あと三か月待ってほしい。六月中に一段落するんだ。このアイスランドの仕事も、大学院の博士課程も」
航志朗は続けて切なそうに言った。
「そうすれば、もっと君に会いに帰って来られる」
安寿は航志朗の目を見てうなずいた。そして、ふたりはきつく抱き合った。
安寿は二階に着替えに行った。航志朗はシャワーを浴びにバスルームに行った。安寿は冷蔵庫の中の残りものを全部使って野菜スープをつくった。それから、ふたりは残りの食パンをトーストして咲の手作りジャムをたっぷりと塗って昼食に食べた。
ふたりはタイルを梱包し始めた。一枚一枚エアキャップ袋に入れて、アタッシェケースに詰めていった。安寿は牛たち一頭一頭に「いってらっしゃい」と声をかけた。航志朗はその可愛らしい安寿の姿を見て微笑んだが、だんだん胸が詰まって苦しくなってきた。
(その言葉は、もうすぐ俺にもかけられるんだよな)
航志朗は時計を見上げた。午後四時だ。クルルは午後五時までに戻って来る。アイスランドへ向かう経由地のデンマーク・コペンハーゲン空港行きのフライトは午後九時発だ。すぐに成田空港に向かわなければならない。
(安寿と二人きりで過ごせるのは、あと一時間だ……)
無言で安寿は立ち上がり、エプロンを着てキッチンで食器を洗い始めた。蛇口から流れ出る水を見ながらこらえきれずに安寿は涙を流した。航志朗に気づかれないようにあわてて両目をワンピースの袖でぬぐう。だが、すべては抑えきれなかった。
航志朗は後ろ姿の安寿が肩を震わせていることに気がついた。微かにしゃくりあげる声も聞こえてくる。航志朗は安寿の後ろに静かに立った。
「安寿……」
航志朗は後ろから安寿を抱きしめようとした。
安寿は振り向いたとたんにいきなり航志朗に抱きついた。手を濡らしたままで。航志朗は苦しげな表情をして、安寿を思いきり抱きとめた。安寿は泣き声をあげるのをなんとか耐え忍んだが、涙がどんどんあふれ出てくる。たちどころに航志朗が着ているダークネイビーのシャツに黒いしみをつくった。
航志朗は安寿を抱き上げてソファに連れて行った。安寿は泣き顔を航志朗の胸に押しつけて隠し、航志朗にしがみつきながら何回も言った。
「ごめんなさい、泣いたりして。ごめんなさい、ごめんなさい、航志朗さん……」
安寿の声はおびえたように震えている。航志朗は身体が引き裂かれるようなひどい痛みを感じた。すべてを投げ出して安寿を連れてここからどこか遠くへ逃げ出したくなる。
(こんな気持ちになるのは初めてだ。俺は安寿を愛している。もうどうしようもないくらいに)
航志朗は安寿の顔を強引に持ち上げた。そして、安寿の顔じゅうにめちゃくちゃに口づける。「安寿、愛してる、愛してる」と何度も苦しそうにうめきながら。安寿は航志朗のなすがままにされながらますます涙を流した。
やがて、ふたりは静かになって互いに見つめ合った。安寿は航志朗の琥珀色の瞳のなかに自分の姿を見つけた。夢から覚めたように安寿はつぶやいた。
「私が航志朗さんの瞳のなかにいる……」
航志朗も安寿の瞳を見つめて言った。
「安寿の瞳のなかには俺がいるよ」
航志朗は安寿に微笑んだ。
やっと、安寿は笑顔になって言った。
「航志朗さん。皆で描いた牛たちをよろしくお願いします」
「あとは俺に任せろ」
航志朗は安寿をきつく抱きしめた。
もうすぐ五時だ。安寿は洗面台で顔を洗って身支度を整えた。鏡に映った自分の顔を安寿は見つめた。
(しっかりしなくちゃ。いずれ私はひとりで立たなくてはいけないんだから)
安寿は自分にそう言い聞かせた。
口をへの字に曲げて莉子は大翔を見上げた。地下鉄に乗った時から大翔は黙り込んでしまった。心なしか大翔の顔色が青ざめている。莉子は大翔の手をそっと握って言った。
「大翔くん、無理しなくていいよ。今日はここでバイバイしようね」
大翔はきつく目を閉じてうつむいた。
クルルがふたりの様子をうかがってから尋ねた。
「リコ、ハルトはどうしたんだ?」
莉子が英単語を並べて言った。
「ハルト、私のパパとママと会う、怖い」
首をかしげてクルルが不思議そうに訊いた。
「怖い? どうして」
莉子はジェスチャーを交えて言った。
「私とハルト、好き、秘密」
「秘密? どうしてなんだ。まったく理解ができない」
クルルは眉間にしわを寄せて腕を組んだ。大翔はうつむいたままだ。クルルは大翔の大きな背中を思いきり強く叩いて言った。
「ハルト、君はリコを本気で心から愛しているんだろう。おい、しっかりしろよ!」
突然、大翔は莉子の両手を握って大声で言った。
「莉子、結婚しよう! もちろん大学を卒業してからだけど」
「大翔くん……」
莉子は大粒の涙を両目から流して大翔に抱きついた。大翔も莉子をきつく抱きしめた。
あぜんとしたクルルが首を傾けて抱き合ったふたりに尋ねた。
「君たち、いったいどうしたんだ?」
大翔から身体を離して莉子は叫ぶように言った。
「大翔くんが、今、私にプロポーズしたの!」
涙で顔をくしゃくしゃにさせながら、莉子はクルルに思いきり抱きついた。クルルは顔を赤くしながら莉子の背中にそっと手を回して祝福した。
「そうか、よかったな。おめでとう、リコとハルト」
莉子は両手で大翔とクルルの手を勢いよく引いて店の脇の道を奥へと進んで行き、莉子の家の中に入って行った。
毛布の中で航志朗の存在に安らぎを感じながら、安寿は目を開けた。目の前に航志朗ののどぼとけが見えた。安寿は手を伸ばしてそれにそっと触れた。航志朗はぐっすりと気持ちよさそうに眠っている。安寿は泣き出しそうになる自分を必死になって抑えた。
(ずっと彼と一緒にいたい。でも、それは絶対に許されない)
安寿は航志朗の胸に顔を寄せてその匂いと温もりを身体じゅうで感じた。そして、安寿は自分の胸に手を当てた。早鐘を打ってどきどきしている。またここに触れてほしいと思ってしまう。安寿は顔を赤らめながら、目を閉じた航志朗の顔を見つめた。
やがて、航志朗が目を開けてしっかりと安寿を見た。安寿は精いっぱい航志朗に微笑んだ。航志朗はぎゅっと安寿を抱きしめて言った。
「安寿、あと三か月待ってほしい。六月中に一段落するんだ。このアイスランドの仕事も、大学院の博士課程も」
航志朗は続けて切なそうに言った。
「そうすれば、もっと君に会いに帰って来られる」
安寿は航志朗の目を見てうなずいた。そして、ふたりはきつく抱き合った。
安寿は二階に着替えに行った。航志朗はシャワーを浴びにバスルームに行った。安寿は冷蔵庫の中の残りものを全部使って野菜スープをつくった。それから、ふたりは残りの食パンをトーストして咲の手作りジャムをたっぷりと塗って昼食に食べた。
ふたりはタイルを梱包し始めた。一枚一枚エアキャップ袋に入れて、アタッシェケースに詰めていった。安寿は牛たち一頭一頭に「いってらっしゃい」と声をかけた。航志朗はその可愛らしい安寿の姿を見て微笑んだが、だんだん胸が詰まって苦しくなってきた。
(その言葉は、もうすぐ俺にもかけられるんだよな)
航志朗は時計を見上げた。午後四時だ。クルルは午後五時までに戻って来る。アイスランドへ向かう経由地のデンマーク・コペンハーゲン空港行きのフライトは午後九時発だ。すぐに成田空港に向かわなければならない。
(安寿と二人きりで過ごせるのは、あと一時間だ……)
無言で安寿は立ち上がり、エプロンを着てキッチンで食器を洗い始めた。蛇口から流れ出る水を見ながらこらえきれずに安寿は涙を流した。航志朗に気づかれないようにあわてて両目をワンピースの袖でぬぐう。だが、すべては抑えきれなかった。
航志朗は後ろ姿の安寿が肩を震わせていることに気がついた。微かにしゃくりあげる声も聞こえてくる。航志朗は安寿の後ろに静かに立った。
「安寿……」
航志朗は後ろから安寿を抱きしめようとした。
安寿は振り向いたとたんにいきなり航志朗に抱きついた。手を濡らしたままで。航志朗は苦しげな表情をして、安寿を思いきり抱きとめた。安寿は泣き声をあげるのをなんとか耐え忍んだが、涙がどんどんあふれ出てくる。たちどころに航志朗が着ているダークネイビーのシャツに黒いしみをつくった。
航志朗は安寿を抱き上げてソファに連れて行った。安寿は泣き顔を航志朗の胸に押しつけて隠し、航志朗にしがみつきながら何回も言った。
「ごめんなさい、泣いたりして。ごめんなさい、ごめんなさい、航志朗さん……」
安寿の声はおびえたように震えている。航志朗は身体が引き裂かれるようなひどい痛みを感じた。すべてを投げ出して安寿を連れてここからどこか遠くへ逃げ出したくなる。
(こんな気持ちになるのは初めてだ。俺は安寿を愛している。もうどうしようもないくらいに)
航志朗は安寿の顔を強引に持ち上げた。そして、安寿の顔じゅうにめちゃくちゃに口づける。「安寿、愛してる、愛してる」と何度も苦しそうにうめきながら。安寿は航志朗のなすがままにされながらますます涙を流した。
やがて、ふたりは静かになって互いに見つめ合った。安寿は航志朗の琥珀色の瞳のなかに自分の姿を見つけた。夢から覚めたように安寿はつぶやいた。
「私が航志朗さんの瞳のなかにいる……」
航志朗も安寿の瞳を見つめて言った。
「安寿の瞳のなかには俺がいるよ」
航志朗は安寿に微笑んだ。
やっと、安寿は笑顔になって言った。
「航志朗さん。皆で描いた牛たちをよろしくお願いします」
「あとは俺に任せろ」
航志朗は安寿をきつく抱きしめた。
もうすぐ五時だ。安寿は洗面台で顔を洗って身支度を整えた。鏡に映った自分の顔を安寿は見つめた。
(しっかりしなくちゃ。いずれ私はひとりで立たなくてはいけないんだから)
安寿は自分にそう言い聞かせた。