今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 腕を組んだ航志朗は小窓の外を眺めていた。星ひとつさえ見えない漆黒の暗闇だ。今、飛行機は北極上空を航行している。航志朗はデカフェを啜りながら深いため息をついた。左手をシャツの胸に当てて、安寿の存在を感じとる。もうすっかり乾いてしまったが、確かにここは安寿の涙でしっとりと濡れていた。

 照明を落とした機内で結婚指輪が読書灯に反射して光った。

 横を見るとクルルが布に包まれた古びた木片を手にして眺めている。桔梗、菊、蓮、梅、桜の五種類の花の和菓子の木型だ。クルルは使い込まれた木型をなでながら言った。

 「リコのパパにもらったんだ。リコの曾祖父が使っていたものだと言っていた」

 航志朗は目を細めて言った。

 「そうか。よかったな」

 それから、ふと思い出して航志朗はクルルに言った。

 「クルル。安寿が言っていたんだけど、あの牛の絵の作者に彼女の名前を出さないでほしいってさ」

 まったくクルルは驚かなかった。

 「皆で描いたからだろ。いかにもアンジュらしいな」

 「それから、もし作者の名前を来館者に訊かれたら、『僕の友だちが描いた』って言ってほしいって」

 クルルは目を見開いた。そして、すぐにそっぽを向いた。航志朗はうつむいてデカフェを啜った。航志朗はクルルの瞳が一瞬潤んだのを見逃さなかった。

 クルルは唇をとがらせてつぶやいた。

 「コウシロウ、やっぱりアンジュは君にはとんでもなく『モッタイナイ』な」

 夜間飛行の心の拠り所を見失ってしまいそうな静まり返った時空間に身を置いて、座席に深く座った航志朗は腕を組んだ。パーテーションを外した隣のフルフラットシートに横になったクルルは穏やかな寝息を立てている。目を閉じたクルルはまさに透明な羽を持った妖精のようだ。航志朗はシートベルトをいったん外して、クルルの足元に落ちたブランケットを拾って掛け直した。

 ふと見ると、真っ黒な窓に自分の姿が映っている。航志朗の隣に安寿はいない。一人きりだ。また安寿と遠く離れつつあることを実感して、航志朗は胸が張り裂けそうになった。

 来月から安寿は新しい場所に行くのだ。航志朗が知り得ない、まったく手の届かないところに。そこには、あの男がいる。急に全身が震えるような不安が襲ってきた。

 航志朗は懸命に信じようとした。俺たちはすでに愛し合っているんだと。航志朗は安寿の素肌の生温かい感触を思い出して身体じゅうをうずかせた。今、あのベッドの上に横になっている安寿を抱きしめたいと痛切に思う。だが、あることに気づいた航志朗はがく然として目を見開いた。

 (一度も安寿は俺を愛していると言っていない……)

 航志朗は安寿への狂おしい想いで憔悴しきった顔を両手で覆った。

 飛行機は最果ての火と氷の国を目指して、真闇のなかを飛んで行く。

 安寿と航志朗の距離は、また遠く遠く離れて行った。

















 


 









 



















 










 






 






 
















 






















 




 


 

 

 


















 

















 
















 






 













 

 






 





















 

 
























 











 









 















 

 

 





 



 

 






  

























 
















 







 















 












 






 

 





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