今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
大学の入学式は滞りなく終了した。岸家に帰宅すると玄関で咲がにこにこして安寿を出迎えた。
「安寿さま、おかえりなさいませ。航志朗坊っちゃんから贈り物が届いていますよ。ご入学のお祝いですね!」
咲は安寿にラッピングされた大きな箱を手渡した。驚いた安寿はすぐに自室に行ってその箱を開けた。中には最新モデルの真っ白なノートパソコンが入っていた。驚くほど薄型で軽量だ。申しわけなく思いつつも、突然の贈り物が嬉しくて、安寿は胸がいっぱいになった。
すぐに安寿は航志朗にお礼のメールを送った。安寿はノートパソコンを抱きしめて思った。
(私、一生懸命、大学で学ぼう。彼がチャンスを与えてくれたんだから)
それから、安寿は大学の履修要綱を熟読した。とりあえず一年次は黒川と接触する機会はなさそうだ。肩を落として安寿は少しだけ安堵した。
安寿は四年後を見すえている。晴れて大学生になったからといって浮かれるような気分とは無縁だ。安寿の頬を赤橙色の陽光が照らした。バルコニーに出て、沈んでいく夕陽を見ながら安寿は思った。
(このお屋敷にいられるのは、長くてあと四年。大学を卒業したら自活するためにすぐに収入を得られるようにしなくちゃ。どうしたらいいのか、まだわからないけど)
安寿は教職課程も履修することを決めた。美術教師になりたいとは思わないが、将来の選択肢を広げるためだ。一般教養と油絵学科のカリキュラムの他に一年次配当の教職関連科目を履修すると、かなりハードな時間割になるがやるしかない。大学の四年間にできる限り学んでおこうと思う。それに、履修科目を増やしたとしても学費は変わらないのだ。当然のことながら安寿は本気だ。
だが、夜も更けてひとりでベッドにもぐりこむと、安寿は胸が苦しくて仕方がない。身体を丸めて膝を抱えて思う。
(航志朗さんと一緒に過ごせるのもあと四年なんだ。四年間のうちにいつか彼と離婚する日が来る。そういう契約なんだから)
安寿は起き上がってバルコニーに出た。三日月が出ている。白く光る細い月を見て何かの骨のようだと思った。安寿は胸に手を当てた。航志朗に触れられた感触を思い出して身体の奥が熱くなる。
(彼との未来はない。だからまた彼に会えたら、精いっぱい彼を愛したい。離れてから絶対に後悔しないように。彼に他の女のひとがいても、私はもう構わない)
土曜日は濃紺の麻の着物をまといモデルになる。髪を長く伸ばし始めてずいぶん経つ。黒髪が少しずつ視界に入ってくるのを安寿は不思議に思う。
最近になってポーズを取る際に、岸は安寿の身体に手を触れて指示するようになった。画家の細い指が百合の花を持つ安寿の指に触れる。微妙に指先の角度を動かされる。航志朗に触れられるのとは、まったく違う感触だ。
岸に触れられるとなぜかとても哀しくなる。岸の指先に安寿は何かを求められているように感じるからだ。でも、その何かは自分のなかにはないのを安寿は知っている。いつも岸の指は安寿のなかの何かを探している。おぼろげに広がる空虚感に覆われながら。
岸の安寿を描く人物画はその筆致が一度失われた情熱を再び帯びて、日増しに限りなく細密になっていく。まるでもう一人の安寿を複製するかのようにその姿形を写し取る。それはモデルの心までも乖離させてしまうほどの力を持つ。
だが、安寿はそれに取り込まれない。安寿はずっと岸を見つめてはいるが、心をずらして遠くを見る。その視線のはるかな先には、航志朗がいる。航志朗はここにはいないが、ずっと安寿を遠い場所から見守っている。
近頃、華鶴が頻繁にアトリエにやって来るようになった。華鶴はアトリエの中には入らない。ドア越しに安寿と岸を見つめているだけだ。美しい微笑を浮かべながら華鶴はその過程を黙って静観していた。
「安寿さま、おかえりなさいませ。航志朗坊っちゃんから贈り物が届いていますよ。ご入学のお祝いですね!」
咲は安寿にラッピングされた大きな箱を手渡した。驚いた安寿はすぐに自室に行ってその箱を開けた。中には最新モデルの真っ白なノートパソコンが入っていた。驚くほど薄型で軽量だ。申しわけなく思いつつも、突然の贈り物が嬉しくて、安寿は胸がいっぱいになった。
すぐに安寿は航志朗にお礼のメールを送った。安寿はノートパソコンを抱きしめて思った。
(私、一生懸命、大学で学ぼう。彼がチャンスを与えてくれたんだから)
それから、安寿は大学の履修要綱を熟読した。とりあえず一年次は黒川と接触する機会はなさそうだ。肩を落として安寿は少しだけ安堵した。
安寿は四年後を見すえている。晴れて大学生になったからといって浮かれるような気分とは無縁だ。安寿の頬を赤橙色の陽光が照らした。バルコニーに出て、沈んでいく夕陽を見ながら安寿は思った。
(このお屋敷にいられるのは、長くてあと四年。大学を卒業したら自活するためにすぐに収入を得られるようにしなくちゃ。どうしたらいいのか、まだわからないけど)
安寿は教職課程も履修することを決めた。美術教師になりたいとは思わないが、将来の選択肢を広げるためだ。一般教養と油絵学科のカリキュラムの他に一年次配当の教職関連科目を履修すると、かなりハードな時間割になるがやるしかない。大学の四年間にできる限り学んでおこうと思う。それに、履修科目を増やしたとしても学費は変わらないのだ。当然のことながら安寿は本気だ。
だが、夜も更けてひとりでベッドにもぐりこむと、安寿は胸が苦しくて仕方がない。身体を丸めて膝を抱えて思う。
(航志朗さんと一緒に過ごせるのもあと四年なんだ。四年間のうちにいつか彼と離婚する日が来る。そういう契約なんだから)
安寿は起き上がってバルコニーに出た。三日月が出ている。白く光る細い月を見て何かの骨のようだと思った。安寿は胸に手を当てた。航志朗に触れられた感触を思い出して身体の奥が熱くなる。
(彼との未来はない。だからまた彼に会えたら、精いっぱい彼を愛したい。離れてから絶対に後悔しないように。彼に他の女のひとがいても、私はもう構わない)
土曜日は濃紺の麻の着物をまといモデルになる。髪を長く伸ばし始めてずいぶん経つ。黒髪が少しずつ視界に入ってくるのを安寿は不思議に思う。
最近になってポーズを取る際に、岸は安寿の身体に手を触れて指示するようになった。画家の細い指が百合の花を持つ安寿の指に触れる。微妙に指先の角度を動かされる。航志朗に触れられるのとは、まったく違う感触だ。
岸に触れられるとなぜかとても哀しくなる。岸の指先に安寿は何かを求められているように感じるからだ。でも、その何かは自分のなかにはないのを安寿は知っている。いつも岸の指は安寿のなかの何かを探している。おぼろげに広がる空虚感に覆われながら。
岸の安寿を描く人物画はその筆致が一度失われた情熱を再び帯びて、日増しに限りなく細密になっていく。まるでもう一人の安寿を複製するかのようにその姿形を写し取る。それはモデルの心までも乖離させてしまうほどの力を持つ。
だが、安寿はそれに取り込まれない。安寿はずっと岸を見つめてはいるが、心をずらして遠くを見る。その視線のはるかな先には、航志朗がいる。航志朗はここにはいないが、ずっと安寿を遠い場所から見守っている。
近頃、華鶴が頻繁にアトリエにやって来るようになった。華鶴はアトリエの中には入らない。ドア越しに安寿と岸を見つめているだけだ。美しい微笑を浮かべながら華鶴はその過程を黙って静観していた。