今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第3節
真夏の太陽がアスファルトを照りつける。今年の日本の夏は赤道直下のシンガポールより暑いんじゃないのかと思いながら、航志朗は車を運転して岸家に向かっていた。航志朗が免許を取得したイギリスも現在拠点を置いているシンガポールも日本と同様に右ハンドルなので運転に戸惑うことはない。首都高は空いていて、思ったよりも早く着きそうだ。
航志朗は十年ぶりに実家に向かっている自分を不思議に思った。この夏にこのようなタイミングで帰国するとはまったく思ってもみなかった。それに東京には戻って来ても実家に寄るつもりはなかった。ふと航志朗は、今、モルディブに三週間のハネムーンに行っているアンとヴァイオレットのことを思い出した。そして口元をゆるませて、思い出し笑いをした。
(あの新婚夫婦、一緒にモルディブに行こうって、俺を誘ってきたのには参ったよな)
モルディブの空と海はきっと真っ青なのだろうと、東京の少しくすんだ青空を見上げながら航志朗は親友たちを懐かしく思った。三日前にチャンギ国際空港でハネムーンに出発する彼らを見送ったばかりだというのに。
高速道路を下りてからしばらく走り、郊外のさらに外れに来た。岸家までもうすぐだ。見慣れた風景が近づいてきた。やがて、白い屋敷とその裏の森が航志朗の目に入ってくる。十年ぶりにここに帰って来た。その時、航志朗は、この十数年間求め続けてきた自分の本当の目的をはっきりと認識した。
(そうだ。俺はあの森を取り戻して、自分のものにする。俺はそのために生きている)
航志朗は車を降りて屋敷の前に立った。そして、屋敷には入らず裏手に回り、森へ向かった。敷地内は相変わらずひっそりと静かだ。ここには、おそらく父と伊藤夫妻、それから、母が言っていた高校生の画家のモデルがいるはずだ。
航志朗は森の入口に着いた。緑鮮やかな樹々が航志朗の目の前に現れた。懐かしい森のすべてが航志朗の五感を震わせる。今、ここに戻ってきたのだという実感に、航志朗は気持ちが高ぶった。
ふと航志朗は振り返った。父のアトリエの窓が開いていて、レースのカーテンが風に揺れている。その光景は航志朗に何かを思い出させたが、航志朗はそれをとらえることができなかった。航志朗は吸い寄せられるようにウッドデッキからアトリエの窓に近づき、揺れるレースのカーテンをたぐりよせて開いた。
そして、航志朗はそこに見つけた。
──白い翼を持った少女を。
カウチソファでぐっすりと眠っている安寿を航志朗はじっと見つめた。安寿に掛けられたベールが風にのって柔らかくはためく。ベールはまるで安寿の大きな白い翼のようだ。
航志朗はゆっくりと安寿に近づいた。そして、安寿のかたわらにひざまずいた。航志朗はベールを持ち上げて、安寿の黒髪に触れた。航志朗の手は微かに震えた。すると安寿は寝返りを打って仰向けになった。安寿は安らかに息づいて眠っている。航志朗は安寿を見つめた。長く静かな時間がふたりの間に流れた。
航志朗は安寿の頬にそっと手を触れた。そして、安寿の唇に自分の唇を重ねた。だが、あまりにも無垢なその感触に、一瞬で航志朗は大きな罪悪感を感じ、思わずたじろいで身を引いた。しかし、航志朗は自分の奥底から不意にわき上がってきた熱を帯びた衝動にあらがえなかった。また航志朗は安寿に唇を重ねた。甘い陶酔が航志朗を包み、このまま安寿を抱きしめてしまいたい欲望にかられた。
その時、突然、「ん……」と安寿が小さな声をもらし、航志郎は一気に現実に引き戻された。航志朗はあわてて立ち上がり、そのまま安寿を見下ろした。
安寿は何かひんやりと冷たいものが自分の唇に触れた感じがした。だが、それに嫌悪感は抱かなかった。
(……私は、何をしていたんだっけ?)
まだ安寿は午睡のまどろみのなかにいた。やがて、安寿は気づいた。誰かがそばに立って自分を見下ろしている。琥珀色の瞳がぼんやりと見えた。岸だ。
(いやだ! 私、眠ってしまったんだ!)
「岸先生、すいません! 私……」
安寿はあわてて起き上がって岸に謝罪した。
恥ずかしさに安寿は耳まで真っ赤になった。画家に申しわけなくて、安寿は顔を上げることができない。
航志朗は初めて見る目覚めた安寿の姿に心が激しく揺り動かされて、胸が強くしめつけられた。しかし同時に、安寿に父と間違われて、突如として航志朗のなかに幼稚な怒りが生じた。
航志朗は安寿に冷たく言い放った。
「……君さ、画家の愛人?」
安寿はその聞き覚えのない声にはっと顔を上げた。目の前には、岸ではなく見知らぬ男が自分を見下ろしている。いきなりその男に「画家の愛人」と言われて、思わず安寿は自分の姿を見て思った。
(確かにそう見えるかもしれない。私は寝乱れて、あられもない格好をしている)
安寿は岸との心温まる大切な時間がじわじわと崩れていくような感じがしてきた。安寿は痛切に哀しくなり顔をしかめ、涙がその頬を伝った。
航志朗は目の前で突然泣き出した安寿を見て、後悔の念にさいなまれた。航志朗の胸の鼓動が早まり冷や汗が出てきた。この状況下でどう振るまうのが最善なのかまったくわからずに航志朗はうろたえた。そして、このような反応をする自分に航志朗は驚愕した。
(俺は冷静沈着な人間じゃなかったのか)
航志朗は逃げるようにアトリエの窓から外へ出ていき、持ち合わせた理性を無理やり引きずり出して冷静さを取り戻そうとした。航志朗はこのまま車に乗って帰途に着こうと判断した。
(完全にあの父のモデルに嫌われたな。……まあ、その方がビジネスが滞りなく進むか)と算段したが、胸の奥に苦いものが残った。航志朗は顔をしかめて思った。
(それにしても、どうして俺はあんなことをしてしまったんだ? わけがわからない……)
航志朗は指先で安寿の無垢な感触が残った唇に触れた。
航志朗は十年ぶりに実家に向かっている自分を不思議に思った。この夏にこのようなタイミングで帰国するとはまったく思ってもみなかった。それに東京には戻って来ても実家に寄るつもりはなかった。ふと航志朗は、今、モルディブに三週間のハネムーンに行っているアンとヴァイオレットのことを思い出した。そして口元をゆるませて、思い出し笑いをした。
(あの新婚夫婦、一緒にモルディブに行こうって、俺を誘ってきたのには参ったよな)
モルディブの空と海はきっと真っ青なのだろうと、東京の少しくすんだ青空を見上げながら航志朗は親友たちを懐かしく思った。三日前にチャンギ国際空港でハネムーンに出発する彼らを見送ったばかりだというのに。
高速道路を下りてからしばらく走り、郊外のさらに外れに来た。岸家までもうすぐだ。見慣れた風景が近づいてきた。やがて、白い屋敷とその裏の森が航志朗の目に入ってくる。十年ぶりにここに帰って来た。その時、航志朗は、この十数年間求め続けてきた自分の本当の目的をはっきりと認識した。
(そうだ。俺はあの森を取り戻して、自分のものにする。俺はそのために生きている)
航志朗は車を降りて屋敷の前に立った。そして、屋敷には入らず裏手に回り、森へ向かった。敷地内は相変わらずひっそりと静かだ。ここには、おそらく父と伊藤夫妻、それから、母が言っていた高校生の画家のモデルがいるはずだ。
航志朗は森の入口に着いた。緑鮮やかな樹々が航志朗の目の前に現れた。懐かしい森のすべてが航志朗の五感を震わせる。今、ここに戻ってきたのだという実感に、航志朗は気持ちが高ぶった。
ふと航志朗は振り返った。父のアトリエの窓が開いていて、レースのカーテンが風に揺れている。その光景は航志朗に何かを思い出させたが、航志朗はそれをとらえることができなかった。航志朗は吸い寄せられるようにウッドデッキからアトリエの窓に近づき、揺れるレースのカーテンをたぐりよせて開いた。
そして、航志朗はそこに見つけた。
──白い翼を持った少女を。
カウチソファでぐっすりと眠っている安寿を航志朗はじっと見つめた。安寿に掛けられたベールが風にのって柔らかくはためく。ベールはまるで安寿の大きな白い翼のようだ。
航志朗はゆっくりと安寿に近づいた。そして、安寿のかたわらにひざまずいた。航志朗はベールを持ち上げて、安寿の黒髪に触れた。航志朗の手は微かに震えた。すると安寿は寝返りを打って仰向けになった。安寿は安らかに息づいて眠っている。航志朗は安寿を見つめた。長く静かな時間がふたりの間に流れた。
航志朗は安寿の頬にそっと手を触れた。そして、安寿の唇に自分の唇を重ねた。だが、あまりにも無垢なその感触に、一瞬で航志朗は大きな罪悪感を感じ、思わずたじろいで身を引いた。しかし、航志朗は自分の奥底から不意にわき上がってきた熱を帯びた衝動にあらがえなかった。また航志朗は安寿に唇を重ねた。甘い陶酔が航志朗を包み、このまま安寿を抱きしめてしまいたい欲望にかられた。
その時、突然、「ん……」と安寿が小さな声をもらし、航志郎は一気に現実に引き戻された。航志朗はあわてて立ち上がり、そのまま安寿を見下ろした。
安寿は何かひんやりと冷たいものが自分の唇に触れた感じがした。だが、それに嫌悪感は抱かなかった。
(……私は、何をしていたんだっけ?)
まだ安寿は午睡のまどろみのなかにいた。やがて、安寿は気づいた。誰かがそばに立って自分を見下ろしている。琥珀色の瞳がぼんやりと見えた。岸だ。
(いやだ! 私、眠ってしまったんだ!)
「岸先生、すいません! 私……」
安寿はあわてて起き上がって岸に謝罪した。
恥ずかしさに安寿は耳まで真っ赤になった。画家に申しわけなくて、安寿は顔を上げることができない。
航志朗は初めて見る目覚めた安寿の姿に心が激しく揺り動かされて、胸が強くしめつけられた。しかし同時に、安寿に父と間違われて、突如として航志朗のなかに幼稚な怒りが生じた。
航志朗は安寿に冷たく言い放った。
「……君さ、画家の愛人?」
安寿はその聞き覚えのない声にはっと顔を上げた。目の前には、岸ではなく見知らぬ男が自分を見下ろしている。いきなりその男に「画家の愛人」と言われて、思わず安寿は自分の姿を見て思った。
(確かにそう見えるかもしれない。私は寝乱れて、あられもない格好をしている)
安寿は岸との心温まる大切な時間がじわじわと崩れていくような感じがしてきた。安寿は痛切に哀しくなり顔をしかめ、涙がその頬を伝った。
航志朗は目の前で突然泣き出した安寿を見て、後悔の念にさいなまれた。航志朗の胸の鼓動が早まり冷や汗が出てきた。この状況下でどう振るまうのが最善なのかまったくわからずに航志朗はうろたえた。そして、このような反応をする自分に航志朗は驚愕した。
(俺は冷静沈着な人間じゃなかったのか)
航志朗は逃げるようにアトリエの窓から外へ出ていき、持ち合わせた理性を無理やり引きずり出して冷静さを取り戻そうとした。航志朗はこのまま車に乗って帰途に着こうと判断した。
(完全にあの父のモデルに嫌われたな。……まあ、その方がビジネスが滞りなく進むか)と算段したが、胸の奥に苦いものが残った。航志朗は顔をしかめて思った。
(それにしても、どうして俺はあんなことをしてしまったんだ? わけがわからない……)
航志朗は指先で安寿の無垢な感触が残った唇に触れた。