今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第3節

 安寿が大学に入学してから初めての夏休みに入った。清華美術大学の夏休みは七月下旬から九月中旬まであって、高校と比べるとずいぶん長い。

 安寿はお盆明けまでの三週間、『菓匠はらだ』の本店でアルバイトをしていた。夏休みに入ってから、莉子は婚約者の大翔と一緒に大翔の京都の実家の宇田川家に赴いていた。莉子が不在の人手が足りない夏の繁忙期に、細やかな心遣いができてよく働く安寿は、莉子の父と次兄の匠にも従業員たちからも重宝がられた。今まで家業にまったく興味を示さなかった莉子の長兄の(やまと)も銀行のお盆休みに手伝いに出て来ていた。莉子の父の原田はつくづく思った。

 (ああ、安寿さんをうちの嫁にしたかった……)
 
 安寿自身も莉子の実家で安心してアルバイトができてありがたかった。華鶴や航志朗に対して親友の実家の店を手伝いに行くという口実もできた。ただのアルバイトだったら簡単には許してもらえなかっただろう。

 安寿は九月に入ってから、北海道にいる叔母の恵夫婦と生まれたばかりの子どもに初めて会いに行くのだ。その旅費や赤ちゃんへのプレゼント代が稼げる。

 店に出勤すると莉子の祖母になぜか従業員用の制服の着物ではなく、莉子の華やかな着物を着付けられて店に立った。左手の薬指に指輪をしている安寿は、常連客たちから何回も「原田家の息子さんたちのどちらかのご婚約者さまですか?」と訊かれてとても困った。そんな時は「彼女は莉子の友人で、手伝いに来てもらっているんです」と言って、匠が助け舟を出してくれた。

 匠は物静かだが心優しい。航志朗からクルルが匠に恋心を抱いていると聞いた。はじめ安寿はとても驚いたが、静かにふたりを見守ろうと思った。実は安寿は知っている。店の休憩時間に、匠が「アイスランド語入門」のテキストを熱心に熟読していることを。

 アイスランドを後にした航志朗はイギリスに滞在していた。六月末に大学院へ博士論文を提出して、その後に行われた口頭試問にも無事パスした。航志朗はかねてより目標にしてきた博士号を授与された。十五歳の時から現在まで、十二年間に渡って学んだイギリスとの別れの日が近づいて来た。

 今、航志朗は大学時代にアンと借りていた留学生向けのフラットの貸主の家に滞在している。貸主の名前は、ミセス・キャサリン・リンチ。愛称は、キティ。キティは航志朗を特別に可愛がってくれた。キティ最愛の大学教授だった亡き夫が、航志朗と同じアンバーアイを持っていたからだ。九十代のキティはもの忘れが進み、今は街の老人ホームに入居している。キティの実の娘のアリスの厚意で、博士学位授与式までの数週間、リンチ家に世話になることになった。

 航志朗は仕事の合間に老人ホームに行ってキティの話し相手になったり、一緒にホームの庭に出て歩行の補助をしたりしていた。だが、キティは航志朗のことをまったく認識していない。近くの公園に散歩に出ると、頬を少女のように赤らめたキティは嬉しそうに航志朗の腕にしっかりとつかまって一歩一歩ゆっくりと歩いた。もしかしたらキティの亡き夫に間違えられているのかもしれないが、航志朗はキティに結婚の報告をした。

 「キティ、私は昨年の春に結婚しました。妻は私と同じ日本人で、今、大学生なんです。彼女は美術大学で絵の勉強をしています。人の心を動かす素晴らしい絵を描くんですよ。今度は妻を連れて、あなたに会いに来ますね」

 キティは航志朗の顔を見ずにうんうんとうなずいてから鼻歌を歌い出した。昨年の夏に安寿が日本語で歌っていたあの歌──アイルランドのフォークソング『ザ・ラスト・ローズ・オブ・サマー』だ。航志朗も小声で一緒に歌い出した。陽が傾いてセピア色の光に照らされた花壇をふと見ると、遅咲きのアイリスの花がたくさん咲いていた。その淡い紫色は航志朗が安寿に贈ったノルディックセーターの色を思い起こさせた。そして、航志朗は微笑んだ安寿の姿をアイリスの花畑の中に思い浮かべた。航志朗は自分のなかにずっと抱いている安寿を心から愛する気持ちを穏やかに感じていた。

 老人ホームを出てから急に安寿の声が聞きたくなった航志朗は、安寿に電話をしようとスマートフォンを取り出した。だが、今の日本は深夜だ。航志朗はため息をついて、左手の薬指を切なそうに見つめた。

< 180 / 471 >

この作品をシェア

pagetop