今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
七月に入って大学院の博士学位授与式の日がやって来た。授与式は十七世紀に設計された歴史的建造物のシアターで催行された。
航志朗はスーツの上にアリスから借りたアカデミックドレスを羽織り式に出席した。アリスの息子が十年前にテーラーで仕立てたものだ。
初めて航志朗はアカデミックドレスを身にまとう。大学の卒業式も修士学位授与式も出席しなかった。伝統にのっとって授与式はラテン語で粛々と進められた。最後に一人ずつ副学長と握手して退場だ。大学の職員をしているアリスが祝福に来て、スマートフォンで写真を撮ってくれた。
夕方からのパーティーはパスした。大学時代に世話になった教授たちと大学院の担当教官にあいさつして大学を去ろうとした時に、突然、航志朗は後ろから声をかけられた。
「コーシ、おめでとう!」
航志朗はその聞き覚えのある声に、一瞬、顔をしかめた。そして、ゆっくりと振り返って、航志朗はその名前をつぶやいた。
「オリガ……」
そこにはプラチナブロンドの真っ青な瞳の美しい女が立っていた。航志朗の学生時代のガールフレンド、オリガ・ブラウンフィールドだ。オリガはその場に立ち尽くした航志朗に歩み寄り微笑んで言った。
「弟の修士学位授与式に出席するために、久しぶりにこの街に来たの。まさかあなたがここにいるなんて、驚いたわ」
航志朗は作り笑顔を浮かべて言った。
「久しぶりだな、元気?」
「ええ。私、昨年結婚したの。ダッドのオーケストラのひとと」
「そうか、おめでとう」
「コーシは? ミスター・リーとシンガポールに行ったって聞いたけど」
「ああ。今もシンガポールのアンの会社で働いている」
航志朗は淡々とした口調で素っ気ない態度だ。オリガはだんだん苛立ってきた。いきなりオリガは航志朗の腕に手をからませてその豊満な胸を押しつけると、甘えた口調で誘惑するようにささやいた。
「ねえ、コーシ。私、今夜フリーなの。久しぶりに一緒に過ごしましょうよ」
オリガは今にもキスしてきそうな艶やかな瞳で航志朗を見つめた。
航志朗はそっとオリガの腕をほどいた。そして、オリガの目を見て言った。
「オリガ、俺も昨年結婚したんだ」
オリガは青い瞳を大きく見開いて驚いた。
「うそ! ……うそでしょ? コーシ!」
航志朗は黙ってオリガの瞳を見つめた。航志朗の琥珀色の瞳は陰った。
オリガは悲痛なまなざしで叫んだ。
「コーシ、あなた、誰とも結婚するつもりはないって言っていたじゃない!」
(確かに昔はそうだった。でも、俺は心から愛するひとに出会ったんだ)
航志朗は固く目を閉じてこぶしを握りしめた。鈍い偏頭痛がしてくる。航志朗は今すぐに安寿を抱きしめたくてたまらなくなった。
航志朗はオリガに背を向けて静かに言った。
「……さよなら、オリガ」
オリガはその背中に怒鳴りつけた。
「コーシ! 私たち、あんなに愛し合っていたのに!」
無言で航志朗は去って行った。八年間通った大学と、学生時代の最後のガールフレンドから。
その日の夜遅く、ロンドン・ヒースロー空港でシンガポールに向かうフライトを待っている間に航志朗は安寿に電話をした。ビジネスラウンジで航志朗は珍しくオーガニックのカモミールティーを飲んでいた。スマートフォンをタップすると、すぐに安寿とつながった。
「安寿……」
『はい。航志朗さん』
安寿の柔らかく自分の名前を呼ぶ声に、航志朗は心から安堵した。
「今、ロンドンからシンガポールに向かうところなんだ。それから、今日、大学の学位授与式に行って来た。博士学位を取得したんだ」
『航志朗さん、おめでとうございます! 今度一緒にお祝いしましょうね。私もお式に出席したかったです』
「本当か? 飛行機に乗れないのに」
そうは言っても、航志朗は嬉しさがこみあげてきた。
『ええ。あの、ファンタジー映画や海外ドラマで見た魔法使いのローブみたいな衣装を着たんですか?』
航志朗は安寿のあまりにも子どもっぽい発言に思わずくすっと笑って言った。
「ああ、着たよ」
『お写真は撮りましたか?』
「撮ってもらったよ。見る?」
『はい。見たいです。今度、お会いした時に見せてください』
航志朗は切なくてどうしようもなくなった。
(「今度、お会いした時に」って、普通の夫婦の会話じゃないよな……)
「安寿、来月に休暇を取って君に会いに行くよ。また二人きりでゆっくり過ごそう」
「はい。待っています」
嬉しくなった安寿はうつむいて微笑んだ。
航志朗はスーツの上にアリスから借りたアカデミックドレスを羽織り式に出席した。アリスの息子が十年前にテーラーで仕立てたものだ。
初めて航志朗はアカデミックドレスを身にまとう。大学の卒業式も修士学位授与式も出席しなかった。伝統にのっとって授与式はラテン語で粛々と進められた。最後に一人ずつ副学長と握手して退場だ。大学の職員をしているアリスが祝福に来て、スマートフォンで写真を撮ってくれた。
夕方からのパーティーはパスした。大学時代に世話になった教授たちと大学院の担当教官にあいさつして大学を去ろうとした時に、突然、航志朗は後ろから声をかけられた。
「コーシ、おめでとう!」
航志朗はその聞き覚えのある声に、一瞬、顔をしかめた。そして、ゆっくりと振り返って、航志朗はその名前をつぶやいた。
「オリガ……」
そこにはプラチナブロンドの真っ青な瞳の美しい女が立っていた。航志朗の学生時代のガールフレンド、オリガ・ブラウンフィールドだ。オリガはその場に立ち尽くした航志朗に歩み寄り微笑んで言った。
「弟の修士学位授与式に出席するために、久しぶりにこの街に来たの。まさかあなたがここにいるなんて、驚いたわ」
航志朗は作り笑顔を浮かべて言った。
「久しぶりだな、元気?」
「ええ。私、昨年結婚したの。ダッドのオーケストラのひとと」
「そうか、おめでとう」
「コーシは? ミスター・リーとシンガポールに行ったって聞いたけど」
「ああ。今もシンガポールのアンの会社で働いている」
航志朗は淡々とした口調で素っ気ない態度だ。オリガはだんだん苛立ってきた。いきなりオリガは航志朗の腕に手をからませてその豊満な胸を押しつけると、甘えた口調で誘惑するようにささやいた。
「ねえ、コーシ。私、今夜フリーなの。久しぶりに一緒に過ごしましょうよ」
オリガは今にもキスしてきそうな艶やかな瞳で航志朗を見つめた。
航志朗はそっとオリガの腕をほどいた。そして、オリガの目を見て言った。
「オリガ、俺も昨年結婚したんだ」
オリガは青い瞳を大きく見開いて驚いた。
「うそ! ……うそでしょ? コーシ!」
航志朗は黙ってオリガの瞳を見つめた。航志朗の琥珀色の瞳は陰った。
オリガは悲痛なまなざしで叫んだ。
「コーシ、あなた、誰とも結婚するつもりはないって言っていたじゃない!」
(確かに昔はそうだった。でも、俺は心から愛するひとに出会ったんだ)
航志朗は固く目を閉じてこぶしを握りしめた。鈍い偏頭痛がしてくる。航志朗は今すぐに安寿を抱きしめたくてたまらなくなった。
航志朗はオリガに背を向けて静かに言った。
「……さよなら、オリガ」
オリガはその背中に怒鳴りつけた。
「コーシ! 私たち、あんなに愛し合っていたのに!」
無言で航志朗は去って行った。八年間通った大学と、学生時代の最後のガールフレンドから。
その日の夜遅く、ロンドン・ヒースロー空港でシンガポールに向かうフライトを待っている間に航志朗は安寿に電話をした。ビジネスラウンジで航志朗は珍しくオーガニックのカモミールティーを飲んでいた。スマートフォンをタップすると、すぐに安寿とつながった。
「安寿……」
『はい。航志朗さん』
安寿の柔らかく自分の名前を呼ぶ声に、航志朗は心から安堵した。
「今、ロンドンからシンガポールに向かうところなんだ。それから、今日、大学の学位授与式に行って来た。博士学位を取得したんだ」
『航志朗さん、おめでとうございます! 今度一緒にお祝いしましょうね。私もお式に出席したかったです』
「本当か? 飛行機に乗れないのに」
そうは言っても、航志朗は嬉しさがこみあげてきた。
『ええ。あの、ファンタジー映画や海外ドラマで見た魔法使いのローブみたいな衣装を着たんですか?』
航志朗は安寿のあまりにも子どもっぽい発言に思わずくすっと笑って言った。
「ああ、着たよ」
『お写真は撮りましたか?』
「撮ってもらったよ。見る?」
『はい。見たいです。今度、お会いした時に見せてください』
航志朗は切なくてどうしようもなくなった。
(「今度、お会いした時に」って、普通の夫婦の会話じゃないよな……)
「安寿、来月に休暇を取って君に会いに行くよ。また二人きりでゆっくり過ごそう」
「はい。待っています」
嬉しくなった安寿はうつむいて微笑んだ。