今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
やがて、特急がホームに入って来た。安寿はまたグリーン車の座席に座った。安寿は本当に申しわけなく思った。伊藤が往路の鉄道の手配をすべて事前に予約してくれて、さらに運賃まで岸家に支払ってもらった。その費用ためにアルバイトをしていたというのに。
普通車もグリーン車も閑散としていて乗客はまばらだ。渡辺が車で迎えに来てくれる帯広駅までは約二時間かかる。安寿はスーツケースをゆったりとした二人掛けの座席の前方に置いて深く座り、窓側の座席から車窓の外を眺めた。
空がとても広く感じる。日常とは違う土地に来たのだ。発車メロディー音に続いて、発車を告げる自動アナウンスが流れる。その時、後方にスーツケースを転がす音が聞こえてきた。
その音はゆっくりと近づいて来る。そして、安寿の隣で止まった。なにげなく安寿は振り返って通路側を見た。
思わず安寿は大きく目を見開いて息を呑んだ。
「こ、こう、……航志朗さん!」
そこには、肩を上下させて息を荒げた航志朗が立っていた。額に汗を浮かべた航志朗は座席の背もたれに片手でつかまりながら、白いシャツのボタンを二つ外してから胸元をあおって、にやっと笑った。
「どうして、ここに……」
安寿は航志朗が目の前にいることがまったく信じられずに言葉を失った。
航志朗はスーツケースを手前に置くと、安寿の隣にどかっと腰を下ろした。そして、ドリンクホルダーに収まっているミネラルウォーターのボトルを取って、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
航志朗はいたずらっぽく笑って言った。
「ただいま、安寿」
あわてて安寿は言った。
「お、おかえりなさい、……航志朗さん」
「三か月待ってほしいって言っておきながら、五か月待たせたな。ごめん、安寿」
急に安寿の瞳の奥が熱くなって、じわっと涙がたまってきた。安寿はうつむいて首を横に振りながら、航志朗の腕を両手で強くつかんだ。
「いえ、いいんです。また会えたので」
すぐにでも航志朗は訊きたかった。
(安寿、君は俺のことを「ずっと、好きでした」って、本当なのか?)
だが、どうしても航志朗は言い出せなかった。
安寿を目の前にして、身も心も震えるような喜びに満たされた航志朗は、安寿の肩に腕を回して引き寄せた。そして、安寿の顎を手でつかんで持ち上げると顔を近づけた。安寿はあわてて両手で航志朗の口を押さえて、小声で叫ぶように言った。
「公共交通機関の中ですよ、航志朗さん!」
「そうだな……」
それでも航志朗は安寿の腰に腕を回して身体を密着させた。互いの身体の奥が熱を帯びてくるのを感じる。安寿は頬を赤らめて視線を車窓の外へ送った。もう外の風景は安寿の目には入らない。自分に寄り添った航志朗の姿が窓ガラスに映っているのを見つめる。まぎれもなく、今、ここに、航志朗が存在している。
(本当に、彼はいつも私の前に突然現れるんだから……)
そっと航志朗は安寿の後ろ髪に触れて言った。
「安寿、ずいぶんと髪が伸びたんだな」
「岸先生に、髪を伸ばしてほしいと言われたんです」
「……そうか」
航志朗は顔をしかめて下を向いた。どうしてもわいてきてしまう憎悪に胸をよじらせて、安寿の後頭部に顔をうずめる。航志朗は安寿の髪を鼻でかきわけて現れた耳に口づけて、耳たぶを甘く吸った。安寿は身体じゅうがとろけるような感覚におちいってあせった。安寿は振り返り、「もうっ」と小声で文句を言って、航志朗をにらんだ。航志朗は笑って安寿の目をのぞき込んだ。安寿も航志朗を見つめ返した。
(本当に、なんて透き通った琥珀色の瞳なの。吸い込まれそう……)
自分から安寿は航志朗の首に手を回し、身を寄せて唇を重ねようとした。くすっと航志朗は笑って冗談まじりに言った。
「公共交通機関の中ですよ、安寿さん?」
我に返った安寿は真っ赤になって至近距離で動きを止めた。(私ったら、なんてことを……)と思った瞬間に、航志朗にキスされた。あわてて安寿はまわりを見回したが、とりあえず視界には誰もいない。思わず安寿は深いため息をついた。
時刻は午後五時を過ぎている。安寿はふと思い出して航志朗に訊いた。
「航志朗さん、お腹空いてないですか? 咲さんがいろいろ持たせてくれたんですよ」
安寿は保冷バッグを開けて見せた。
「さすが咲さん。気がきくな」と言って、さっそく航志朗は板チョコレートを取り出すときれいに割って口に入れた。当然のように航志朗は安寿の口にも運んだ。航志朗はかなりお腹が空いていたらしく、クラッカーもライ麦パンもたちどころに平らげた。もちろん安寿も一緒に口にした。
安寿は首をかしげて不思議そうに尋ねた。
「それにしても、どうして私がこの電車に乗っているって知っていたんですか?」
「昨日、伊藤さんに聞いた。それに、この座席も伊藤さんに予約してもらった」
「えっ?」
「君が恵さんのところに行くのに合わせて、昨日、俺も十日間の休暇を取った。各方面にかなり無理やり押し切って。今朝、午前五時四十分にシンガポール発の便に乗って、午後四時すぎに新千歳空港に着いた。それから快速エアポートに乗って、猛ダッシュでこの特急に乗り込んだ」
「午前五時四十分発……」
「そう。実は、午前四時までオフィスで仕事をしていた。スーツケースは予め用意しておいたから、そのままタクシーで空港に向かった」
「徹夜明けっていうことですか!」
「ああ、そうだな。飛行機の中で少し眠ったけど」
(身体、大丈夫なの……)
安寿はとても心配になった。
「それに、恵さんにも俺が君と一緒に行くっていうことを昨日伝えてある」
「ええっ、どうして私には伝えてくれなかったんですか」
愉しそうに航志朗は言った。
「もちろん、君のその驚く顔が見たかったからに決まってるだろ」
安寿は肩を落として仏頂面をした。
(私だけが知らなかったっていうことね……)
航志朗は安寿の肩に腕を回して自分の胸に引き寄せた。安寿は素直に航志朗に寄りかかった。
(やっとつかまえた。もう俺は君を離さない)
航志朗は安寿に回した腕の力を強めた。
(久しぶりの彼の腕の中。なんだかほっとする)
今朝からずっと緊張していた肩の力が抜けて安寿は目を閉じた。
普通車もグリーン車も閑散としていて乗客はまばらだ。渡辺が車で迎えに来てくれる帯広駅までは約二時間かかる。安寿はスーツケースをゆったりとした二人掛けの座席の前方に置いて深く座り、窓側の座席から車窓の外を眺めた。
空がとても広く感じる。日常とは違う土地に来たのだ。発車メロディー音に続いて、発車を告げる自動アナウンスが流れる。その時、後方にスーツケースを転がす音が聞こえてきた。
その音はゆっくりと近づいて来る。そして、安寿の隣で止まった。なにげなく安寿は振り返って通路側を見た。
思わず安寿は大きく目を見開いて息を呑んだ。
「こ、こう、……航志朗さん!」
そこには、肩を上下させて息を荒げた航志朗が立っていた。額に汗を浮かべた航志朗は座席の背もたれに片手でつかまりながら、白いシャツのボタンを二つ外してから胸元をあおって、にやっと笑った。
「どうして、ここに……」
安寿は航志朗が目の前にいることがまったく信じられずに言葉を失った。
航志朗はスーツケースを手前に置くと、安寿の隣にどかっと腰を下ろした。そして、ドリンクホルダーに収まっているミネラルウォーターのボトルを取って、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
航志朗はいたずらっぽく笑って言った。
「ただいま、安寿」
あわてて安寿は言った。
「お、おかえりなさい、……航志朗さん」
「三か月待ってほしいって言っておきながら、五か月待たせたな。ごめん、安寿」
急に安寿の瞳の奥が熱くなって、じわっと涙がたまってきた。安寿はうつむいて首を横に振りながら、航志朗の腕を両手で強くつかんだ。
「いえ、いいんです。また会えたので」
すぐにでも航志朗は訊きたかった。
(安寿、君は俺のことを「ずっと、好きでした」って、本当なのか?)
だが、どうしても航志朗は言い出せなかった。
安寿を目の前にして、身も心も震えるような喜びに満たされた航志朗は、安寿の肩に腕を回して引き寄せた。そして、安寿の顎を手でつかんで持ち上げると顔を近づけた。安寿はあわてて両手で航志朗の口を押さえて、小声で叫ぶように言った。
「公共交通機関の中ですよ、航志朗さん!」
「そうだな……」
それでも航志朗は安寿の腰に腕を回して身体を密着させた。互いの身体の奥が熱を帯びてくるのを感じる。安寿は頬を赤らめて視線を車窓の外へ送った。もう外の風景は安寿の目には入らない。自分に寄り添った航志朗の姿が窓ガラスに映っているのを見つめる。まぎれもなく、今、ここに、航志朗が存在している。
(本当に、彼はいつも私の前に突然現れるんだから……)
そっと航志朗は安寿の後ろ髪に触れて言った。
「安寿、ずいぶんと髪が伸びたんだな」
「岸先生に、髪を伸ばしてほしいと言われたんです」
「……そうか」
航志朗は顔をしかめて下を向いた。どうしてもわいてきてしまう憎悪に胸をよじらせて、安寿の後頭部に顔をうずめる。航志朗は安寿の髪を鼻でかきわけて現れた耳に口づけて、耳たぶを甘く吸った。安寿は身体じゅうがとろけるような感覚におちいってあせった。安寿は振り返り、「もうっ」と小声で文句を言って、航志朗をにらんだ。航志朗は笑って安寿の目をのぞき込んだ。安寿も航志朗を見つめ返した。
(本当に、なんて透き通った琥珀色の瞳なの。吸い込まれそう……)
自分から安寿は航志朗の首に手を回し、身を寄せて唇を重ねようとした。くすっと航志朗は笑って冗談まじりに言った。
「公共交通機関の中ですよ、安寿さん?」
我に返った安寿は真っ赤になって至近距離で動きを止めた。(私ったら、なんてことを……)と思った瞬間に、航志朗にキスされた。あわてて安寿はまわりを見回したが、とりあえず視界には誰もいない。思わず安寿は深いため息をついた。
時刻は午後五時を過ぎている。安寿はふと思い出して航志朗に訊いた。
「航志朗さん、お腹空いてないですか? 咲さんがいろいろ持たせてくれたんですよ」
安寿は保冷バッグを開けて見せた。
「さすが咲さん。気がきくな」と言って、さっそく航志朗は板チョコレートを取り出すときれいに割って口に入れた。当然のように航志朗は安寿の口にも運んだ。航志朗はかなりお腹が空いていたらしく、クラッカーもライ麦パンもたちどころに平らげた。もちろん安寿も一緒に口にした。
安寿は首をかしげて不思議そうに尋ねた。
「それにしても、どうして私がこの電車に乗っているって知っていたんですか?」
「昨日、伊藤さんに聞いた。それに、この座席も伊藤さんに予約してもらった」
「えっ?」
「君が恵さんのところに行くのに合わせて、昨日、俺も十日間の休暇を取った。各方面にかなり無理やり押し切って。今朝、午前五時四十分にシンガポール発の便に乗って、午後四時すぎに新千歳空港に着いた。それから快速エアポートに乗って、猛ダッシュでこの特急に乗り込んだ」
「午前五時四十分発……」
「そう。実は、午前四時までオフィスで仕事をしていた。スーツケースは予め用意しておいたから、そのままタクシーで空港に向かった」
「徹夜明けっていうことですか!」
「ああ、そうだな。飛行機の中で少し眠ったけど」
(身体、大丈夫なの……)
安寿はとても心配になった。
「それに、恵さんにも俺が君と一緒に行くっていうことを昨日伝えてある」
「ええっ、どうして私には伝えてくれなかったんですか」
愉しそうに航志朗は言った。
「もちろん、君のその驚く顔が見たかったからに決まってるだろ」
安寿は肩を落として仏頂面をした。
(私だけが知らなかったっていうことね……)
航志朗は安寿の肩に腕を回して自分の胸に引き寄せた。安寿は素直に航志朗に寄りかかった。
(やっとつかまえた。もう俺は君を離さない)
航志朗は安寿に回した腕の力を強めた。
(久しぶりの彼の腕の中。なんだかほっとする)
今朝からずっと緊張していた肩の力が抜けて安寿は目を閉じた。