今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 終点の帯広駅には、午後六時半すぎに到着した。外はすでに陽が落ちて薄暗くなっている。スーツケースを引いたふたりが改札口に近づくと、大きく手を振る渡辺の姿が目に入った。

 「安寿ちゃん、航志朗くん、久しぶりー!」

 渡辺は日焼けしていて、以前よりもがっしりした体格になっていた。安寿は嬉しそうに微笑みながら言った。

 「優仁さん、赤ちゃんお誕生おめでとうございます!」

 安寿の隣で航志朗も会釈しながら微笑んだ。

 「ありがとう。とうとう僕も父親になったよ。さあ、行こうか。恵も、敬仁(はやと)も、君たちを待っているよ」

 航志朗が感心したように言った。

 「敬仁くん。()い名前ですね」

 安寿が航志朗を見上げて微笑んだ。

 三人は駅前駐車場に停めてあった渡辺の車に向かった。渡辺が安寿のスーツケースを運んでくれた。渡辺の車は四輪駆動のミニバンだった。二列目にはベビーシートが取り付けられている。安寿と航志朗は三列目のシートに座った。

 運転席に座った渡辺が振り返って言った。

 「ふたりともお腹空いたんじゃない? これから五十分くらいかかるから、よかったら、そこのお菓子食べてね」

 シートに置いてあった紙箱を開けると、大きなさつまいもを丸ごと一本使ったスイートポテトが入っていた。ふたりは少しずつ分け合って食べた。食べ終わると航志朗は安寿の手を握った。安寿はお腹も胸もいっぱいになった。渡辺の後ろ姿が常に視界に入る。安寿は恥ずかしくてどうしようもない。頬を赤らめてうつむいた。

 市街地を抜けると、暗闇の中にオレンジ色のナトリウム灯がぽつぽつと灯っているだけになった。渡辺はバックミラーをちらっと見ると、カーステレオでCDをかけた。七十年代から八十年代にかけて活躍したイギリスのロックバンドの楽曲だ。身体を揺らして航志朗が英語で口ずさみ始めた。渡辺も航志朗に合わせて楽しそうに歌い出した。真っ暗な車内で安寿は顔を上げて、リラックスした様子の航志朗の顔を見た。航志朗は安寿に笑いかけながら歌った。

 無事に渡辺の家に到着した。暗くてよくわからないが、大きな敷地に家が建っているようだった。車の音に気がついた恵が玄関から飛び出してきた。安寿も車の中から飛び出した。

 「安寿!」

 「恵ちゃん!」

 安寿と恵は抱き合った。ふたりは互いが泣いていることに気づいて、ますます涙を流した。

 「恵ちゃん、おめでとう! ママになったんだね」

 「うん、ありがとう。とても、とても、会いたかった、安寿」

 後から降りて来た航志朗と渡辺が顔を見合わせて微笑み合った。渡辺は親しげに航志朗の肩に腕を回した。

 安寿の髪をなでた恵が驚いた声をあげた。

 「安寿、あなた、髪を伸ばしたの?」

 「うん。岸先生に伸ばしてほしいって、言われたから」

 「……そう」

 無表情になって恵は黙り込んだ。

 その時、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。玄関から渡辺の母、希世子(きよこ)が敬仁を抱っこして出て来た。恵は安寿をうながして敬仁のもとへ連れて行った。恵は義母から敬仁を受け取って抱きかかえた。恵の胸元に小さな手を置いて、敬仁はすぐに泣きやんだ。

 安寿は敬仁を見つめた。敬仁も安寿をつぶらな瞳でじっと見つめた。また安寿は涙が出てきた。ワンピースの袖で涙をぬぐってから、小さな小さな手にそっと触れた。とても温かい。それに、なんともいえない甘くていい匂いがする。航志朗が安寿の隣にやって来た。航志朗は恵と希世子に会釈してから、敬仁を見てにっこりと微笑んだ。恵は優しく微笑みながら言った。

 「安寿、敬仁を抱っこしてあげて」

 安寿は戸惑った。赤ちゃんを抱っこするのは初めてだ。胸をどきどきさせながら、安寿はおそるおそる両手を差し出して、敬仁を恵から受け取った。

 すぐさま安寿はあわてふためいた。

 (どうやって抱っこしたらいいのか、わからない!)

 まだ首がすわっていない赤ちゃんにおろおろした安寿の気持ちを見透かしたのか、敬仁が顔をしかめてぐすり出した。ますます安寿はあせった。ついに敬仁は大声をあげて泣き出した。恵が見かねて手を出そうとすると、航志朗が敬仁を慣れた手つきで抱き上げた。航志朗は敬仁の首を支えて優しく揺らした。すぐに敬仁はおとなしくなって、航志朗の腕の中で気持ちよさそうに眠ってしまった。驚いた安寿と恵は顔を見合わせてから、一緒に航志朗を見上げた。航志朗は眉を上げて得意そうに安寿を見た。

 感心した恵が大声を出して言った。

 「航志朗さん、すごいわ! 優ちゃんだって、はじめはおっかなびっくりだったのに」

 渡辺が苦笑いしながら言った。

 「航志朗くんを敬仁のベビーシッターとして雇いたいな。とんでもなく時給高そうだけどね」

 「顧客の孫の世話をしたことがあるんですよ」と照れながら航志朗が言った。「クルルの甥っ子だよ」と安寿に説明したが、安寿は驚いたままだ。

 恵は安寿の顔を意味ありげに見ながら耳打ちした。

 「安寿、これならいつ赤ちゃんが来ても大丈夫ね!」

 安寿は思わず真っ赤になった。

 微笑みながら希世子が言った。

 「安寿さんも岸さんも、長旅でお疲れでしょう。中に入って休んでくださいね。夕食もお風呂もご用意してありますよ」

 渡辺家の離れに安寿と航志朗は通された。二人のスーツケースがすでに渡辺の手によって畳の部屋に運ばれていた。畳は張り替えたばかりなのか、い草の香りがした。真新しい布団が二組敷かれている。安寿は胸がどきどきしてきた。航志朗は布団の上に大の字になって身体を思いきり伸ばして言った。

 「やっと着いたな」

 航志朗は起き上がってゆっくりと両手を広げた。

 「おいで、安寿」

 航志朗の琥珀色の瞳が濡れたように光った。

 安寿はおずおずと航志朗のそばに近づいて行った。航志朗は待ちきれずに手を伸ばして安寿を抱きしめた。そして、安寿を布団の上にそっと横たえてから覆いかぶさって言った。

 「安寿、やっとまた会えたな」

 頬を赤らめて安寿は微笑み、航志朗の背中に両腕を回した。航志朗は安寿を愛おしそうに見つめながら、ゆっくりと顔を安寿に落としていった。

 その時、「安寿ー、航志朗さーん、夕食とお風呂どうする?」と恵が離れの部屋の襖をいきなり開けて顔を出した。ふたりが抱き合っているのを目撃した恵は顔を真っ赤にして叫んだ。

 「ご、ごめんなさいっ、失礼しました!」

 あわてふためいた恵は襖をぴしゃっと閉めて走り去って行った。

 安寿と航志朗は顔を見合わせて苦笑いした。安寿は起き上がって言った。

 「航志朗さん、母屋の方に行きましょうか」

 航志朗はうなずいて言った。

 「そうするか」

 胸の内で航志朗は落胆した。

 (ここじゃ何もできないな……)

 「優ちゃん、安寿と航志朗さんが!」

 母屋の一階の和室に飛び込んだ恵が、敬仁のおむつを交換している渡辺の背中に向かって大声で訴えた。

 渡辺は紙おむつのテープを手際よく止めながら、さらっと言った。

 「んー? 裸で抱き合ってたとか」

 「もうっ、そこまでしてないわよ! でも、布団の上で抱き合っていたの。もちろん服を着ていたけど」

 「恵ちゃん、のぞきに行ったの? いーやらしー」

 わざとらしく渡辺は恵を横目で見た。

 恵は真っ赤になって叫んだ。

 「違うわよ! 夕食にするかお風呂に入るかって、聞きに行っただけよ!」

 からかうように渡辺は言った。

 「ふーん、そうなんだー」

 恵はむすっとした顔で渡辺をにらんだ。渡辺はつくづく思った。

 (恵の仏頂面って、本当にいくつになっても可愛いよな……)

 「あのさ、恵ちゃん。安寿ちゃんと航志朗くん、久しぶりに会ったんだろ? そっとしておいてあげなよ」

 その時、安寿が襖の隙間から声をかけた。

 「恵ちゃん、今、大丈夫? 私はスイートポテトでお腹いっぱいなんだけど、航志朗さんはお腹空いたって」

 恵と渡辺は顔を見合わせて笑った。恵は立ち上がって、安寿と航志朗を台所へ連れて行った。

 希世子が航志朗の夕食を用意してくれた。航志朗は礼を言って手を合わせると、三人の女の前でもりもりと大盛りのご飯を食べ始めた。

 「この焼き魚、おいしいですね。ホッケですか?」

 「そうよ。東京で売っているホッケとは別物だと思っちゃうくらいにおいしいでしょ。私も北海道にやって来たばかりの頃、あまりにもおいしくて驚いたわ」と希世子がほうじ茶を淹れながら言った。

 航志朗は「安寿もいただいたら?」と言って、ホッケの身を箸でつまみ、恵と希世子の目の前で堂々と安寿の口に運んだ。安寿は赤くなりながらもホッケを口にして、「本当においしいですね」と微笑んだ。希世子はにっこり笑ったが、恵は恥ずかしくなって目を泳がせた。

 (ちょっと! 安寿と航志朗さんったら、ラブラブじゃないの……)

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