今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 航志朗は岸家の駐車場に向かおうと庭を横切ると、突然、背後から甲高い声をかけられた。

 「航志朗坊っちゃん、おかえりなさい! まあ、なんてご立派になられて……」

 岸家の家政婦である咲が目に涙を浮かべて駆け寄って来て、航志朗の腕をつかんだ。

 「咲さん、ただいま帰りました。長らくごぶさたしてしまって、大変申しわけありません。咲さんもお元気そうで何よりです」

 航志朗は、十年ぶりに会った咲に照れくさそうにあいさつをした。

 「華鶴奥さまから航志朗坊っちゃんがお帰りになるかもしれないってご連絡をいただいて、もう、嬉しくて、嬉しくて……。今、航志朗坊っちゃんの大好物のアップルパイを焼いていますよ。どうぞ召しあがってくださいね」

 咲に子どもの頃世話になった航志朗は、咲に逆らえない。航志朗は咲に腕を取られながら、仕方なく屋敷に入った。

 アトリエから見知らぬ男が出て行って安寿は一人になると、自分のショルダーバッグからティッシュペーパーを取り出して目と鼻をぬぐい、手鏡を見て身なりを整えた。そして、かたわらにあるベールを手に取り、その繊細な刺繡に見入った。

 岸がアトリエに戻って来た。岸は優しく安寿に微笑みかけて言った。

 「安寿さん、気持ちよさそうに眠っていらっしゃいましたね。今日は、すいませんでした。あなたに無理をさせましたね」

 「岸先生、とんでもないです! 私、お仕事の最中に眠ってしまって、本当にすいませんでした」

 「あなたが謝ることはないですよ。さあ、お茶の時間にしましょう。咲さんが、アップルパイを焼いてくれましたよ」

 屋敷の中は、アップルパイが焼ける甘く香ばしい香りが漂っていた。それに季節外れの懐かしい香りもする。おせち料理の筑前煮のような香りだ。安寿は料理上手だった祖母の顔を思い出した。
 
 安寿は屋敷の二階の部屋でシルクのワンピースから制服に着替えてサロンに向かった。サロンのソファには岸と先程の男が座って会話をしていた。それを見た安寿は思わず身を硬くした。

 岸が安寿に気づいて言った。

 「安寿さん、ご紹介します。息子の航志朗です。彼は海外で仕事をしているのですが、今、久しぶりに帰国していまして。航志朗、こちらは、白戸安寿さん。私のモデルになっていただいている」

 (あのひと、岸先生の息子さんだったんだ。瞳の色が岸先生と同じ……)

 航志朗と呼ばれた男がすっと立ち上がり、安寿に会釈した。

 「初めまして。岸航志朗です。どうぞよろしく」

 安寿もあわてて深々とお辞儀をした。

 「初めまして。白戸安寿と申します。こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 安寿と航志朗は見つめ合った。安寿は岸とはまったく違う強い輝きを持つ航志朗の琥珀色の瞳から目を離すことができない。航志朗は先程とは打って変わった制服姿の安寿に対してひそかに狼狽したが、冷静沈着なふりを装った。

 そこへ伊藤がワゴンにティーセットをのせて運んで来た。その後ろから咲が焼きたてのアップルパイを運んで来て、ローテーブルの上で切り分けた。アップルパイはつやつやに輝き、美しく編まれた模様にちょうどよいこげ目がついていて見るからにおいしそうだ。

 「ああ、懐かしいな。伊藤さんと咲さんも一緒にいただきましょう」と航志朗が言った。

 「ええ、でも、航志朗坊っちゃん……」と咲が遠慮したが、航志朗はさっさと立ち上がり台所に行って二人分のティーカップとケーキプレートを持って来た。はじめは使用人として遠慮していた咲だったが、岸にも勧められてから咲は安寿の隣に恐縮しながら座った。そのとたんに咲は話が止まらなくなった。伊藤は無言で咲の隣に立っていた。今まで安寿は咲に物静かな印象を抱いていたが、咲がずっと航志朗の子どもの頃の自慢話を延々と話し続ける姿に驚いた。

 (咲さんは、あのひとのことが可愛くて仕方がないんだ)と安寿は思った。

 午後五時半を過ぎた。安寿は当初昼食後には帰宅する予定だったのだが、ずいぶんと遅くなってしまった。伊藤が安寿をうながし恵に連絡をさせた。安寿の予想通りに、恵は渡辺と一緒だった。安寿は、今日は遅くなるから優仁さんともっとゆっくり会って来たらと恵に提案した。安寿の携帯電話の向こうで、恵はしぶしぶ了承した。

 岸が安寿に今日の礼を言ってサロンから出て行った。そして、安寿が帰り支度をしようと立ち上がると、突然、航志朗が申し出た。
 
 「僕が車で彼女をご自宅までお送りします」

 「えっ?」

 思わず安寿は胸がどきっとした。

 伊藤が「航志朗坊っちゃん、それは……」と言いかけたが、航志朗は強い口調で「僕にお任せください」と言って、帰り支度を始めた。伊藤は険しい表情で航志朗の背中を見つめた。

 結局、航志朗が安寿を送って行くことになり、安寿と航志朗は並んで車に向かった。後ろから伊藤と風呂敷包みを抱えた咲がついて行った。安寿はまだ乾ききっていない大きなキャンバスを抱えている。

 「それ、君の作品?」

 ふいに航志朗が尋ねた。思わず安寿はびくっと両肩を上げた。

 「はい。夏休みの課題なんです。私、美術大学の付属高校に通っているので」

 「ふーん、そうなんだ。ちょっと、その絵、俺に見せてくれない?」

 「えっ? まだ描きかけですけれど……」

 以前、安寿は華鶴から彼女の息子が海外の大学で美術の勉強をしていたと聞いたことがある。そんなひとに自分のつたない作品を見せてもいいのかと恥ずかしい気持ちになったが、かと言って安寿は断れなかった。安寿はおずおずと自分の作品を航志朗に手渡した。その瞬間、航志朗は大きく目を見張った。

 (なんだこの絵は! この彼女が描いたのか!)
 
 安寿の灰色がかった森の絵を航志朗はひと目見るなり、全身に雷が走ったかのような痛烈な衝撃を感じた。

 「これって、うちの裏の森?」

 航志朗はあわてて安寿に訊いた。

 「はい、そうです」と返事をしたものの、航志朗に何を言われるのかと安寿に緊張が走った。

 「ものすごく面白いな。あの森がこういうふうに君には見えるんだ」

 意外にも航志朗は笑顔を浮かべて言った。

 「あの、初めて岸先生のアトリエにうかがった時に見た森の風景なんです」

 「そうか……」

 航志朗は、また安寿の絵に目を落とした。安寿は顔が真っ赤になっている自分を意識した。

 安寿と航志朗が車に乗り込むと、すぐに伊藤は助手席に座った安寿のシートベルトを確認した。「航志朗坊っちゃん、安寿さまを頼みましたよ」と言って、伊藤は少し疑り深い目を航志朗に向けた。咲が安寿に二つの風呂敷包みを渡した。

 「こちらは航志朗坊っちゃんのお夕食です。安寿さまの分もご用意いたしましたので、よろしかったらお召しあがりくださいね」

 安寿は咲に礼を言った。いかにも高級車の最新式らしいカーナビゲーションに安寿から聞いた団地の住所を入力してから、航志朗は車を発進させた。走り去る車が見えなくなるまで見送ってから、咲が機嫌よく微笑みながら彼女の夫である伊藤に言った。

 「秀爾(しゅうじ)さん。あのおふたりって、なんだかお似合いじゃありませんか?」

 一瞬、伊藤の表情が曇った。

 (まさか。しかし、もしそういうことになったら……)

 伊藤は暗い考えを頭のなかにめぐらせた。

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