今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第5節

 北海道に来てから四日目の朝、目を覚ました安寿が航志朗の腕の中でもぞもぞと身動きすると、航志朗も気づいて目を開けた。安寿はあわてて乱れた髪を直した。

 「……おはよう、安寿」

 「おはようございます、航志朗さん」

 航志朗は安寿の右腕を愛おしそうにそっと両手で包んだ。思わず伏せた目を安寿は潤ませた。

 安寿はゆっくりと起き上がると、航志朗に背中を向けて着替え始めた。一瞬だったが初めて安寿の裸の背中を見て、航志朗は胸がどきっとした。いつもの航志朗だったらすぐに手を伸ばしていたはずだ。だが、安寿の右腕には白い包帯が巻かれている。ただ航志朗は呆然と眺めていただけだった。

 母屋の台所に行くと小豆を煮る懐かしい香りがした。安寿は『菓匠はらだ』の朝の光景を思い出した。きっと今朝も莉子の家とあの店はこの香りに包まれているのだろう。

 「おしるこをつくっているのよ。この小豆は、私たちが有機栽培でつくったものなの。お三時に皆でいただきましょうね」と希世子が楽しそうに言った。

 朝食後に安寿はまたスケッチブックを抱えて外に出た。安寿は(こうべ)を垂らした金色の稲穂をスケッチした。

 渡辺の農業法人がある十勝平野は畑作に向いた土地だ。北海道の稲作の中心地は主に石狩平野で、寒冷で水利に恵まれていないこの土地は稲作には適していない。だが、土師がやって来てから、渡辺の家族と法人のスタッフの家族用に小規模に稲作を始めた。もちろんたいへんな手間がかかるが無農薬だ。土師は半ば彼の趣味で自分のプライベートな時間を当てて米を育てている。

 正午すぎになり、腹時計が鳴った安寿は渡辺の家に戻って来た。敷地に入ると敬仁を抱いた恵の後ろ姿が見えた。恵の向こう側に、航志朗がサッカーボールでリフティングをしているのが見える。恵はそれを見物しながら数を数えていた。

 「四百九十九、五百、五百一……。すごいわ、航志朗さん!」

 安寿が戻って来たことに気がついた航志朗は安寿に笑いかけて、リフティングを止めた。恵は振り返って大声で言った。

 「安寿、知らないでしょ? 航志朗さん、ロンドンの高校の名門サッカーチームに入っていたんだって!」

 「恵さん、『名門』は大げさですよ……」

 「だって、元チームメイトにイングランドの代表選手がいるんでしょう!」

 「ええ、まあ。彼は今も友人ですが」

 少し照れながら航志朗は安寿に向かってサッカーボールを軽くパスした。のろのろと足元に転がって来たボールを安寿は蹴り返そうとしたが、思いきり空振りして体制を崩した。あっけにとられた航志朗は急いで安寿のそばに走って来て、安寿の背中を支えた。思わず恵は敬仁の頭に顔をうずめて肩を震わせた。

 「おいおい、安寿。危ないだろ……」

 顔を赤らめた安寿は大声で言いわけした。

 「航志朗さん、前に言いましたよね? 私、運動神経がものすごく悪いんです!」

 腰に手を当てて航志朗は大笑いしながらうなずいた。安寿は頬をふくらませて仏頂面をした。航志朗はそんな安寿の頭を優しくなでた。

 改めて恵は航志朗をまじまじと見て思った。

 (彼、ものすごくもてたんだろうな。ううん、結婚した今だってもてもてよ。間違いないわ。だって、あんなに素敵なんだもの。「遠距離結婚」? 「別居婚」? とにかく心配になってきたわ。いくら安寿のことを心から愛しているとしても、遠く離れて美しい女性に言い寄られたら、彼だって若い男性よ、つい、ふらふらっと……)

 その場面を具体的に想像してしまった恵は、思わずむすっと顔をしかめた。

 姪の幸せを心から願う恵の脳裏にあるアイデアが浮かんだ。

 (もう、これは赤ちゃんに来てもらうしかないわね! 安寿は早くママにならなくちゃ!)

 恵は頬を敬仁に愛おしそうに擦りつけて小声で言った。

 「敬仁だって、早く安寿お姉ちゃんの子どもがほしいよね。ええと、従姉の子どもってなんて言うんだっけ……」

 恵は上を向いて首をかしげた。

 さっそく恵は行動に移した。その場でいきなり恵は安寿と航志朗に提案した。

 「そうそう! ここから二時間ほど車を走らせた山奥にね、いい温泉があるのよ。あさってあたり、二人で行ってらっしゃいよ!」

 安寿と航志朗は顔を見合わせた。

< 191 / 471 >

この作品をシェア

pagetop