今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 次の日の朝早くに、安寿はスケッチブックと水彩絵具セットを持って白樺の並木道に向かった。昨日夜遅くまで仕事をしていた航志朗はまだ眠っていた。そこへリアカーを引いた土師が通りかかった。土師は長袖のつなぎの上に黒い長靴を履いている。

 「安寿さん、おはようございます。昨日はごちそうさまでした」

 土師は安寿に向かって丁寧にお辞儀をした。

 「いえいえ、こちらこそありがとうございました」

 恐縮した安寿はあわてて立ち上がって土師にお辞儀を返した。

 土師はリアカーを置いて、安寿のそばに寄って来た。

 「あの、すいませんが、今描かれている絵を拝見させていただけないでしょうか?」

 安寿は頬を赤らめて言った。

 「あ、はい。まだ描きかけですけれど、どうぞ」

 そう言って安寿は土師にスケッチブックを手渡した。

 安寿の絵を目にした土師は口を大きく開いた。土師の顎ががくがくと震える。水彩絵具で色が塗られているが、目の前の風景とはまったく違う色彩だ。

 生まれ育った横浜からこの土地にやって来て、五年の歳月が経った。今の土師の日常の風景となった平野は、午前中の残暑の日射しに照らされて鮮やかな緑色をしている。だが、安寿の絵は緑色をまったく使っていない。それは、黄金色の輝きにあふれている。

 (これって、……稲穂の色か?)

 安寿が描いた色彩が大波のように絵からあふれ出て来て、土師を呑み込んだ。思わず土師は目を固くつむった。

 目を開けると土師は小麦畑に立っていた。一面に広がる黄金色の小麦畑だ。

 「あれ?」

 土師は不思議に思った。「秋まき小麦」の収穫は八月上旬に終わっている。土師は小麦の穂にそっと手を触れた。太陽に照らされて、それはほんのりと温かい。その温もりに胸を詰まらせた土師はつぶやいた。

 「穂乃花(ほのか)……」

 その気配を感じて、土師は振り返った。そこには、白いエプロンを身に着けた女が柔らかく微笑んで立っていた。化粧っけのない女の頬には小麦粉がついている。

 安寿は自分の絵を見て硬直している土師を不思議そうに見つめていた。そこへ航志朗が眠たげな顔をしてやって来るのが遠目に見えた。その時、急に現実に引き戻された土師は、いきなり安寿の両手を力強く握った。

 (あいつ、安寿に何をしているんだ!)

 頭に血が一気に上った航志朗は走り出した。

 土師は安寿の目をしっかりと見て懇願した。

 「安寿さん、この絵を僕にください!」

 「えっ?」

 安寿とそこへたどり着いた航志朗が同時に言った。

 戸惑いながら安寿は言った。

 「はい。もうすぐ描き終わりますので、よろしかったらどうぞ」

 土師は顔を真っ赤にして、ぽつりとつぶやいた。

 「あさって、……誕生日なんです」

 微笑みながら安寿は言った。

 「そうですか。土師さん、お誕生日おめでとうございます」

 「いや、僕じゃなくて、……元カノの」

 安寿と航志朗は顔を見合わせた。

 それから三人は草むらに座って、安寿と航志朗は土師の身の上話を聞いた。

 五年前、農業大学の大学院を修了した土師は、かねてより憧れていた有機農業に従事すべく、親の反対を押し切ってこの地にやって来た。大学時代から九年間付き合っていた同じ大学の同級生の恋人を東京に置いてきた。

 ふたりが最後に会った日は大雪が降っていた。「大地くんと結婚して、私も一緒に北海道に行きたい」と申し出た彼女に、土師は「今は君と結婚できないし、北海道に連れて行くこともできない。だけど、いつか必ず迎えに来る。だから待っていてほしい」と伝えた。今すぐに彼女と結婚して、見知らぬ土地で生計を立てる自信がなかったのだ。それを聞いた彼女は大泣きして、土師の前から走り去って行った。

 「こっちに来てから五年間、一度も彼女に連絡できなかったんです」

 「……どうしてですか?」

 遠慮がちに航志朗が尋ねた。

 「怖かったんです。こんな自分とは結婚するどころか、もう絶対に会ってくれないと思って」

 安寿は恐る恐る小声で言った。

 「あの、そのご事情だと『元カノ』って言わないと、私は思いますけれど……」

 「いや、彼女にとっては、とっくの昔に、僕は『元カレ』でしょうから」

 土師は寂しそうに笑った。安寿は何も言えずに眉をひそめた航志朗の横顔を見つめた。

 遠くを見て土師が言った。

 「もう五年も経っているんです。きっと彼女は他の男を見つけて、幸せな結婚をしているんじゃないですか……」

 突然、腕を組んで黙り込んでいた航志朗が強い口調で言った。

 「土師さん。今すぐに、この絵を彼女に送ってください!」

 安寿は航志朗の真剣な横顔を黙って見つめた。

 「この絵の裏にメッセージを添えるんです。『ずっと、君をここで待っている』って!」

 (安寿の絵は彼らを救う、必ず!)

 航志朗はその確信に胸を震わせた。

 その夜、安寿と航志朗は一組の布団の中で寄り添っていた。日中は残暑が続いているとはいえ、陽が落ちるとけっこう肌寒い。毛布がふたりの体温で温まってくると、安寿はうとうとし始めた。航志朗は微笑みながら安寿の髪をずっとなでていた。ふと安寿が航志朗の腕の中で小さくつぶやいた。

 「土師さんの想い、彼女に伝わるといいですね」

 土師の身の上話を聞いた後、正午すぎまでに仕事を片づけて帯広の郵便局に行くと言った土師のために、安寿は汗だくになって猛然と絵の仕上げをしていた。その様子を安寿の隣で航志朗はつぶさに見守っていた。

 「大丈夫。伝わるよ、きっと」

 航志朗は目を閉じた安寿の額にそっと口づけた。

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