今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 六日目の朝、目覚めた安寿と航志朗が母屋に行くと、台所で敬仁を背負った恵が大量のサンドイッチをつくっていた。朝から元気いっぱいに張りきっている恵は、ふたりに大声で言った。

 「とってもいい温泉なのよ! ふたりでゆっくり楽しんできてね!」

 メモ用紙に手書きされたその温泉までの案内図を恵は安寿に手渡した。かなりアバウトな道順のような気がしたが、いまだにガイドブックにも地図にさえも載っていない天然の秘湯らしい。台所に希世子がやって来て、航志朗に希世子の車のスマートキーを手渡した。希世子は航志朗の顔をのぞき込んでにこにこ笑った。礼を言って航志朗は会釈したが、わずかに首を傾けた。

 サンドイッチと冷たい麦茶の入った大きめの水筒と二人分のタオルを恵から借りたトートバッグに入れて、安寿は車に乗り込んだ。希世子の軽自動車はルーフがホワイトで車体がスカイブルーのしゃれているデザインだ。もちろん雪深い北海道では必須の四輪駆動車だ。

 先に運転席に座った航志朗は手書きのメモを眺めていた。だが、まったく頭に入ってこない。航志朗の頭のなかは甘過ぎる妄想ではち切れんばかりになっていて、軽い頭痛までしてきた。

 (まさかとは思うけど、……混浴だったりして)

 航志朗の胸はどきどきしてきた。

 助手席に座った安寿は、見送りに出て来た恵と敬仁に手を振った。恵は満足そうな笑みを浮かべていて、安寿は首をかしげた。航志朗は安寿をちらっと見てから勢いよく軽自動車を発進させた。

 車が見えなくなるまで手を振っていた恵の後ろに、渡辺がやって来て言った。

 「恵ちゃん。安寿ちゃんたちに、あの温泉のことをきちんと話したの?」

 「話すわけないでしょ!」

 腰に片手を当てて仁王立ちした恵は愉快そうに渡辺に笑いかけた。

 「あーあ。僕、しーらないっと」

 頭をかきながら渡辺は農作業に戻って行った。

 今日は北海道に来て初めての曇り空だ。航志朗はアクセルペダルを強く踏み、キックダウンして山道をスムーズに登って行きながら隣に座っている安寿の顔を盗み見た。ここに来てやっと二人きりになった。渡辺の家で航志朗はどうしても遠慮してしまっていた。道の途中で車を停められそうなスペースを見つけると、すぐにでも車を停車して安寿を思いきり抱きしめたいという衝動が何回もやって来る。

 安寿は車窓の外の白樺の森を眺めていた。だんだん(もや)が濃くなっていく。一見、清らかな美しい風景だが、白装束をまとった人びとがたくさん立っていて自分を見はっているような気がしてくる。すうっと背筋が冷たくなって、安寿は怖くなってきた。安寿は思わず隣にいる航志朗の腕を強く握った。

 「ん? 安寿、どうした」

 運転しながら航志朗が安寿に訊いた。

 「……なんでもないです。運転中にすいません」

 航志朗から手を離して安寿は下を向いた。

 やがて、その山道の行き止まりにたどり着いた。山道に入ってから一台の対向車とも後続車とも出合わなかった。駐車場らしき空いた場所には、一台の白いセダンが停まっているだけだった。辺りは濃い靄がかかり、しんと静まり返っている。しばらくの間、安寿と航志朗は車の外を呆然と眺めていた。サンドイッチをひと切れつまんでから航志朗が言い出した。

 「……そろそろ行くか」

 こわごわと安寿はうなずいた。
 
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