今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 恵の話だと、駐車場からさらに二十分ほど細い山道を歩いた先にその秘湯があるらしい。安寿とトートバッグを持った航志朗は手をつないで靄のかかる山道を歩き出した。

 行く手には苔むした大きな倒木が横になって道をふさいでいたり、巨大な葉を広げたシダ植物が太古の森のように群生していたりと管理されている様子がまったくうかがえない。ほとんど自然のままの道なき道は非常に歩きづらい。

 (道に迷っていないよね……)

 安寿は心配になってきた。途中で四十代とおぼしき男女と出くわした。彼らは目を合わせずにうつむいたままでふたりに会釈した。不可思議に思いながら安寿と航志朗も会釈を返した。

 靄に混じって湯けむりが見えてきた。安寿はほっとひと安心した。深緑の針葉樹の森の香りが気持ちをリラックスさせてくれて、知らず知らず安寿は航志朗の腕に寄りかかった。心から安寿に許されているように感じて、航志朗は思わず胸を躍らせた。

 行く手には二本の大きな木が並んで立っていて、太いしめ縄が掛かっていた。しめ縄には紙垂(しで)が四枚垂らしてあって、風もないのにひらひら揺れていた。安寿は深々とお辞儀をして、そのしめ縄をくぐった。そのまま通り過ぎようとした航志朗も、安寿に倣ってお辞儀をした。朽ち果てた木製の看板には、おそらくだが「白蛇姫温泉」と書かれていた。その奥に白い石灰岩に囲まれた温泉が目に入った。

 思わず安寿は歓声をあげた。真っ白に白濁した湯がたぷんたぷんと揺れている。靄が立ち込めていてよく視認できないが、意外に広い温泉のようだ。そこには誰もいない。ふたりは周りを見回して着替える場所を探したが、そんなところはない。

 安寿が楽しそうに声をかけた。

 「航志朗さん、早く入りましょうよ!」

 内心で航志朗はあせりまくった。 
 
 (「早く入りましょうよ!」って、この温泉、やっぱり混浴じゃないか!)

 ありえない妄想が出しぬけに現実化して、航志朗は赤くなって固まった。

 すると、いきなり安寿は航志朗の目の前でリネンワンピースのボタンを外し始めた。航志朗は目が飛び出るほど驚いた。まったく目をそらせずに、熱い視線で安寿を見つめてしまう。だが、甘い期待に胸が高鳴ったのはつかのまだった。航志朗は深いため息をついて肩を落とした。

 安寿はワンピースの下に水着を着ていた。航志朗はがっくりとうなだれた。さらに航志朗は気が滅入った。安寿の着ている水着は、ごくありふれたネイビーのスクール水着だ。左胸に「3-A SHIRATO」と刺繍された名札が縫い付けられている。

 「安寿、それって高校の水着?」

 髪をアップでまとめてゴムで結びながら、安寿は航志朗に面と向かって言った。

 「はい、そうです。他に持っていないので、卒業してからもいちおう取っておいたんです」

 押し黙った航志朗はこぶしを握りしめて思った。

 (俺が君に水着を買ってやる。……とびっきりセクシーなやつを)

 だが、色気のないスクール水着だとはいえ、初めて見る水着姿の安寿に航志朗は胸がときめいた。ついまじまじと見つめてしまう。その視線に気づいた安寿はあわてて言った。

 「私、先に入りますね!」

 くるっと背を向けると安寿は乳白色の温泉の中に入って行った。

 (なんて気持ちのいい温泉なの! 恵ちゃんが言っていた通りだ)

 安寿は薄めたミルクのような湯を両手の手のひらですくった。匂いはまったくない。湯の温度は熱くもなくぬるくもなくちょうどよい。人肌の温もりのような体感で、いつまでも浸かっていられそうだ。安寿は右腕の傷をそっとなでた。赤い線が走っているが、しみて痛んだりはしない。安寿は周辺を見回した。視界には誰もいない。湯気が上がる広々とした温泉に、安寿は心の底から愉しくなってきた。ついに安寿は温泉の底を蹴って泳ぎ出した。

 後から航志朗も温泉に入った。周辺を見回してもどこにも安寿の姿が見当たらない。

 (また、安寿はどこへ行ったんだ?)

 航志朗が目を凝らして安寿の姿を探すと、勢いよく湯が跳ねる音がした。その方向に目を向けると、スクール水着を着た安寿が嬉々として泳いでいる。航志朗はぷっと吹き出した。安寿は航志朗に気づいて、平泳ぎで航志朗のところへやって来た。

 航志朗は意外そうな表情で安寿に声をかけた。

 「安寿、泳げるんだな」
 
 浅い温泉の中を器用に泳ぎながら安寿は答えた。

 「ええ。小学生の時、スイミングスクールに通っていたんです。いちおう四泳法はマスターしました」

 可愛らしく口をとがらせて、安寿は少々得意げだ。

 温泉の底に足をついて顔を上げると、突然、安寿は真っ赤になって硬直した。全裸になった航志朗は、腰にタオルを巻いているだけだ。

 安寿は甲高い声で叫んだ。

 「航志朗さん、水着を持って来なかったんですか!」

 「ああ。スーツケースには入っているけど。そんなことよりも、腕の傷は大丈夫なのか、安寿?」

 「大丈夫です!」

 「そうか。それはよかった……」

 温泉に入ってきた航志朗は身をすり寄せるように安寿の隣に座った。胸が弾いた安寿は心持ち離れて、航志朗に背を向けてうつむいた。初めて航志朗は安寿のしっとりとしたうなじを目の当たりにして、ずっと絞り出し続けていた自制心が吹っ飛んだ。すぐさま後ろから安寿をきつく抱きしめて、安寿のうなじに口づける。安寿はびくっと肩を震わせて動かなくなった。航志朗は安寿の耳元でその名を甘くささやいた。

 「安寿……」

 裸になった航志朗の身体に初めて背中が触れる。見なくてもわかる。滑らかで引きしまった身体だ。パジャマを着たまま抱きしめられる時とは全然違う。この温泉の湯のように真っ白く頭のなかがとろけてきた。安寿はゆっくりと振り返って手を伸ばして航志朗に抱きついた。ふたりはしばらく見つめ合ってから唇を重ねた。だんだん深く重ね合い、ふたりを包む湯が音を立てて激しく揺れる。航志朗は我慢しきれなくなって、安寿の水着の肩ひもに手をかけて脱がし始めた。思わず安寿は両手で胸を覆った。

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