今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その時、ふたりの頭上からしわがれた低い声が落ちてきた。

 「ほーらほら、おふたりさん。ここではだめよ。子作りは、おうちに帰ってからにしてね」

 目を大きく見開いて航志朗は上を見上げた。安寿は下を向いてあわてて水着の肩ひもを持ち上げた。

 石灰岩の上に真っ白な老婆が立っていた。長い白髪を後ろに束ねた老婆は、白い着物の上に白い袴を穿いている。全身白づくめだ。手には使い込まれた棕櫚ほうきを持っている。老婆は安寿をじっと見つめると、目尻にしわを寄せて微笑んだ。首筋に冷たいものが走った安寿は、航志朗の腕にしがみついた。

 「おーやおや。ずいぶんとお若いお嬢ちゃんね。もう赤ちゃんがほしいの? よっぽどお隣の殿方さまを想っているのね」

 (「赤ちゃんがほしい」って、どういうことなの……)

 いぶかしげに安寿は白い老婆を見返した。

 白い老婆は、ほっほっと肩を揺らして笑った。

 「あーらあら。なあんにも知らないで、白蛇姫(はくじゃひめ)さまのなかに入っちゃったのね。これは、これは、たいへん、たいへん」

 「どういうことですか?」と航志朗が尋ねた。

 「ここは、子授けのご利益がある温泉なのよ」

 (こ、「子授け」って!)

 安寿はぎょっとして航志朗の顔をうかがったが、航志朗はきょとんとしている。

 白い老婆ははっきりと断言した。

 「すぐ来ちゃうわよ。あなたたち、覚悟を決めなさいね」

 「何が来るんですか?」と航志朗がまた平然と尋ねた。安寿はあ然として航志朗を見た。

 (もうっ、こういう時にかぎって、日本語がわからないの!)

 白い老婆は呆れたように言った。

 「何がって、おふたりの赤ちゃんに決まっているでしょ。琥珀色の瞳のハンサムな殿方さま」

 そう言うと古めかしい子守唄を口ずさみながら、白い老婆は白い靄の中に消えて行った。

 安寿はなんとなく不可解だった今朝の恵の態度に合点がいった。

 (きっと、恵ちゃんたちも「ご利益」にあずかるために、ここに来たんだ)

 安寿は湯の中に深く身体を沈めて手を合わせた。

 (白蛇姫さま。恵ちゃんたちに赤ちゃんを授けてくださいまして、ありがとうございました)

 航志朗もやっと今朝の恵と希世子の意味ありげな態度を認識した。

 (そういうことだったのか。とっくに俺は安寿との子どもの父親になる覚悟を決めている。だけど、安寿はまだ心の準備すらできていないんだろうな。そもそも彼女は俺のことをどう思っているんだ……)

 急に心がふさいだ航志朗は顔をしかめた。鈍い頭痛がしたのだ。

 しばらくふたりは黙り込んでいた。沈黙を破って航志朗が言った。

 「安寿、そろそろ出ようか」

 「はい、航志朗さん」

 安寿はうなずいてから名残惜しそうに両手で白い湯をすくった。

 石灰岩の陰に行って安寿は着替えた。安寿が戻ってくると、服を着た航志朗が頭を抱えて座っていた。急に安寿は胸の奥が波立った。

 「……航志朗さん?」

 航志朗は顔を上げて力なく微笑んだ。

 「いや、なんでもない。行こうか、安寿」

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