今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
彼と初めて会ったのは、一学年の春学期だった。オルガは石膏像を前に苦心していた。オルガは絵を描くことが苦手だった。まったくその行為そのものに興味がないといってもいい。だが、芸術学部の単位を取るためには必要な講義だった。
その時、オルガの隣に一人の男が座った。ふとオルガは顔を上げて、その男を見た。芸術学部では見かけない男だった。横顔は精悍な顔立ちの東洋人だが、その瞳の色はヨーロッパ由来の色彩だった。
彼と一瞬目が合った。彼は微笑んだような気がした。オルガの胸はうずいた。そして、あっという間に彼は美しい石膏デッサンを描き上げた。そのクラスにいた誰もが目を見張った。担当教官もだ。彼は何も言わずにデッサンに名前をサインしてクラスから出て行った。そこには、「K. Kishi」と書かれてあった。後から噂で聞いたのだが、彼は経済学部の学生だった。時々ふらっと芸術学部の講義に現れるらしい。当時、オルガには高校時代からのボーイフレンドがいたが、心から彼に魅かれた。
ときおり構内で見かける彼はいつも美しい女子学生と一緒に腕を組んで歩いていた。または、親友らしきアジア系の細身の男といた。オルガは彼に話しかけたかったが、結局勇気が出なかった。
大学の最終学年を迎えた金曜日の夜、オルガは忘れ物を取りに大学に戻っていた。時刻は午後八時を過ぎていた。カレッジのあちらこちらでは、花の金曜日恒例のパーティ―が開かれていて、強い酒の匂いが鼻についた。それから、オルガが毛嫌いしているロックミュージックが大音量でかかっていた。
オルガは奥まった講堂の前を通り過ぎた。すると、ピアノの音が聞こえてきた。ふと興味を覚えて講堂に足を踏み入れると、暗闇の中、タブレットに映した楽譜を見ながら、誰かが舞台の上に置かれたピアノで練習をしていた。ところどころ酷いミスをしていて、聴くに堪えない演奏だった。だが、心惹かれる音だった。オルガはその曲を知っていた。それは、オルガの実母がよく弾いていた楽曲だった。──ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番だ。そして、オルガは気づいた。そのピアノを弾いている人物は、あの彼だった。
毎週金曜日の夜、彼は一人で講堂に現れてピアノの練習をしていた。ひっそりとオルガは講堂に通った。一番後ろの席に座って、彼が弾くピアノの音に耳をすませた。オルガは自分が彼に恋をしていることをすでに自覚していた。やがて、その曲が美しい音色を奏で始めると、オルガは彼に告白した。「あなたを心から愛している」と。その夜からふたりは付き合いはじめた。
すぐにオルガは彼の素肌に夢中になった。きめの細かいみずみずしい肌だ。オルガはそれに触れるたびに、ある絵を思い出した。ウタガワ・ヒロシゲの雨が描かれた木版画だ。日本には行ったことがないが、その雨が降る国からやって来た男だ。いつも彼は見知らぬ雨の匂いがした。
(あの頃の私たちは心から愛し合ったわ。毎晩のように)
オルガはトレンチコートのポケットから手を出して、うつむいた顔を覆った。そして、意を決してオルガは美術館の中に入った。
その時、オルガの隣に一人の男が座った。ふとオルガは顔を上げて、その男を見た。芸術学部では見かけない男だった。横顔は精悍な顔立ちの東洋人だが、その瞳の色はヨーロッパ由来の色彩だった。
彼と一瞬目が合った。彼は微笑んだような気がした。オルガの胸はうずいた。そして、あっという間に彼は美しい石膏デッサンを描き上げた。そのクラスにいた誰もが目を見張った。担当教官もだ。彼は何も言わずにデッサンに名前をサインしてクラスから出て行った。そこには、「K. Kishi」と書かれてあった。後から噂で聞いたのだが、彼は経済学部の学生だった。時々ふらっと芸術学部の講義に現れるらしい。当時、オルガには高校時代からのボーイフレンドがいたが、心から彼に魅かれた。
ときおり構内で見かける彼はいつも美しい女子学生と一緒に腕を組んで歩いていた。または、親友らしきアジア系の細身の男といた。オルガは彼に話しかけたかったが、結局勇気が出なかった。
大学の最終学年を迎えた金曜日の夜、オルガは忘れ物を取りに大学に戻っていた。時刻は午後八時を過ぎていた。カレッジのあちらこちらでは、花の金曜日恒例のパーティ―が開かれていて、強い酒の匂いが鼻についた。それから、オルガが毛嫌いしているロックミュージックが大音量でかかっていた。
オルガは奥まった講堂の前を通り過ぎた。すると、ピアノの音が聞こえてきた。ふと興味を覚えて講堂に足を踏み入れると、暗闇の中、タブレットに映した楽譜を見ながら、誰かが舞台の上に置かれたピアノで練習をしていた。ところどころ酷いミスをしていて、聴くに堪えない演奏だった。だが、心惹かれる音だった。オルガはその曲を知っていた。それは、オルガの実母がよく弾いていた楽曲だった。──ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番だ。そして、オルガは気づいた。そのピアノを弾いている人物は、あの彼だった。
毎週金曜日の夜、彼は一人で講堂に現れてピアノの練習をしていた。ひっそりとオルガは講堂に通った。一番後ろの席に座って、彼が弾くピアノの音に耳をすませた。オルガは自分が彼に恋をしていることをすでに自覚していた。やがて、その曲が美しい音色を奏で始めると、オルガは彼に告白した。「あなたを心から愛している」と。その夜からふたりは付き合いはじめた。
すぐにオルガは彼の素肌に夢中になった。きめの細かいみずみずしい肌だ。オルガはそれに触れるたびに、ある絵を思い出した。ウタガワ・ヒロシゲの雨が描かれた木版画だ。日本には行ったことがないが、その雨が降る国からやって来た男だ。いつも彼は見知らぬ雨の匂いがした。
(あの頃の私たちは心から愛し合ったわ。毎晩のように)
オルガはトレンチコートのポケットから手を出して、うつむいた顔を覆った。そして、意を決してオルガは美術館の中に入った。