今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 彼との別れは突然やって来た。卒業を間近に控えて、オルガはロンドンのモダンアート・ギャラリーで開催されていたある美術展覧会に彼を誘った。そのギャラリーは招待客しか入場できない特別な場所だった。彼女の継母がその招待券を二枚プレゼントしてくれたのだ。そして、ロンドンの実家に例のボーイフレンドを連れて来て家族に紹介するようにと、継母はにっこりと微笑みながらオルガに言い渡した。

 オルガはずっと不安を抱えていた。彼は外国人だ。学業を終えたら帰国してしまう。遠い遠い日本へ。日に日に想いは募り、オルガは彼と結婚したいと切実に思い詰めるようになっていた。

 昨年のクリスマス休暇に彼を誘って、コヴェント・ガーデンにあるオペラ・ハウスに、ヘンデルの『リナルド』を観に行った。その夜、オルガはベッドの中で甘えるように彼に話した。

 「ねえ、コーシ。私の高校時代の親友がね、先週、ママになったの。私、赤ちゃんの顔を見に行ったんだけど、生まれたばかりの赤ちゃんって、とっても小さくて可愛いのよ」

 その時、彼は何も言わなかった。

 たたみかけるようにオルガは彼に訊いた。

 「ねえ、コーシ。将来ダディになるとしたら、子どもは何人ほしい?」

 彼はまた何も答えなかった。

 面倒くさそうなため息をついて、彼は乾いた声で言った。

 「俺は、誰とも結婚するつもりはない」

 そして、彼はオルガに背中を向けて眠ってしまった。オルガは彼に背を向けて涙を流した。

 そのモダンアート・ギャラリーではイギリスの現代アートシーン注目株のアーティストたちの展覧会が開催されていた。社交界のパーティーさながらの雰囲気で著名人たちが多数招待されていた。オルガはとても緊張してしまって、彼の腕にしがみついた。彼のほうはまったく動じずに、いかにもつまらなさそうに会場内を見渡していた。

 その時だった。ある世界的に有名なアーティストとともに、美しい東洋人の女が展示室に入って来た。女は東洋の民族衣装のようなデザインのドレスを身にまとっていた。たおやかでミステリアスなその美貌は人びとの目を引いた。そのアーティストとはとても親密そうだった。アーティストはその女の腰に手を回して、著名人たちと談笑していた。

 突然、彼がオルガに冷たい口調で言った。

 「帰る」
 
 彼はオルガに背を向けてギャラリーを後にしようとした。その時、先程の女がやって来て、彼に親しげに声をかけた。オルガの知らない言語だった。彼はそれを無視してギャラリーを足早に出て行った。オルガもあわてて彼の後を追った。追いついた彼の横顔は青ざめていて、体調が悪そうだった。

 「コーシ、大丈夫?」

 「悪いけど、一人で帰るよ。……さよなら、オルガ」

 彼はそのまま一人で去って行った。オルガは彼の後をこれ以上追えなかった。

 その日以来、彼との連絡が途切れた。何百回も彼のスマートフォンに電話してもつながらなかった。挙句の果てに、一度も訪れたことがなかった彼のアパートメントを学生課で調べて、そのドアを叩いた。見覚えのあるルームメイトのアジア系の男が出て来て、すまなそうにオルガに告げた。

 「彼は、君にはもう会わないよ。こんなこと僕は言いたくないけれど、……君は、彼のことを早く忘れたほうがいい」

 それから、彼は大学に現れなかった。いつのまにかアパートメントも引き払われていた。掃除をしていた管理人らしき高齢の女に彼の行方を尋ねたが、彼女は困ったように微笑んだだけだった。

 彼はオルガの前から姿を消した。

 オルガは彼のことが忘れられなかった。オルガは大学を卒業してからロンドンの実家に戻り、数か月間引きこもっていた。食欲がなくなりずいぶん痩せて家族を心配させた。だが、そんな彼女を家族は温かく見守ってくれた。程なくして、オーケストラの首席オーボエ奏者になっていた父の紹介で、そのオーケストラの事務局で働くようになった。そして、昨年、父の同僚に求婚されて結婚した。夫はバイオリニストでオルガよりもひと回り年上だ。結婚して夫はすぐに子どもを欲しがったが、オルガはそれをずっと拒んできた。

 (私は母親になれない。本当のママと同じことをしてしまいそうで怖いから)

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