今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
その次の日には、安寿と航志朗は完全に回復した。明日、ふたりは北海道を去ることになる。安寿は東京の岸家へ帰る。航志朗は新千歳空港からソウルへ飛び立つ。またふたりの別れの日がやって来る。
今日は日曜日だ。土師や本間夫妻をはじめ、渡辺の農業法人のスタッフたちが集まって昼食会を開くことになった。早朝から恵と希世子は大量のジャガイモを洗って、皮はむかずにカットして大鍋に入れていた。ふたりは航志朗のリクエストのカレーをつくっている。
安寿は敬仁の子守りをしていた。なんとか安寿は敬仁のご機嫌を損ねずに抱っこできるようになった。
渡辺と航志朗は庭に大きなテーブルを設置していた。正午前になると農業法人のスタッフたちが手料理を持ち寄ってやって来て、昼食会が開かれた。子どもたちもたくさんやって来た。
さっそくサッカーボールを持って来た勇生が航志朗を誘って遊び始めた。それを目に入れて心配した恵が、子どもたちに囲まれた航志朗に大声で怒鳴った。
「ちょっと、航志朗さん! ほどほどにしてね!」
恵の背中を軽く叩いた渡辺が苦笑いしながら言った。
「恵ちゃん、大丈夫だよ。彼は若いんだからさー。だって、まだ二十代だろ」
その言葉に思いきり恵は仏頂面をした。恵はもうすぐ四十代に突入するからだ。渡辺よりも三か月早くに。
安寿は土師のことが心配で仕方がなかった。にぎやかな集まりの中で、うつむいた土師は一人でぽつんとカレーを口に運んでいる。あの後どうなったのか、何も土師に訊くことはできない。だが、土師の様子を見ればじゅうぶん推し量れる。
(あの絵は、土師さんのお役に立てなかったんだ……)
安寿は遠くを見てため息をついた。
最後の夜は、家族だけでゆっくりと過ごした。夕食後、リビングルームに集ってほうじ茶を飲んでいると、突然、希世子が安寿に言い出した。
「安寿ちゃん。ずっと、私、あなたに謝りたかったの。本当にごめんなさい。もちろん、恵さんにもよ」
安寿はわけがわからずに恵の顔を見た。恵は敬仁を胸に抱きながら、希世子に微笑んで言った。
「お義母さん、ありがとうございます。今、安寿も私もとても幸せですから、もう謝らないでください」
希世子は涙ぐんで安寿に言った。
「安寿ちゃん、私ね、とてもとても後悔しているの。恵さんのご両親がお亡くなりになった時に、どうして私たちは恵さんと安寿ちゃんを私たちのところへ家族として迎えなかったんだろうって。優仁が、恵さんを中学生の頃からずっと好きだったことを知っていたのに」
安寿は希世子の瞳を見つめた。まだ会って十日も経っていないのに、懐かしい光を帯びている。安寿は胸がしめつけられた。
希世子は話を続けた。
「ドイツから日本に戻って来て、すぐに私たちはここに来たの。ここはもともと優仁の父方の曾祖父が開拓した土地なの。優仁の祖父は農家を継ぐのが嫌で、単身で上京してしまったんだけどね。ドイツにいた時から、直仁さんは、有機農業のことを一生懸命勉強していたけれど、実際はまったく経験のない素人だった。本当にはじめは大変だったの。法人化して若い人たちもたくさん雇ってしまったし。それでも私たちは、恵さんと安寿ちゃんを家族に迎え入れるべきだった」
渡辺が強い口調で口を挟んだ。
「いや、お母さん、この僕が悪かったんだ! 僕が勇気がなかった。僕がもっと早くに、安寿ちゃんごと恵と結婚するべきだったんだ!」
黙ってふたりの話を聞いていた恵が、敬仁に頬を寄せながらゆっくりと優しく言った。
「ありがとう、お義母さんも優ちゃんも。おふたりとも、もういいのよ。だって、もし、その時、優ちゃんと私が結婚していたら、敬仁は、今、ここには、いなかったことになるでしょう」
恵は敬仁の顔に愛おしそうに頬を擦りつけた。
全員が敬仁を見つめた。敬仁はお腹が空いたのか、恵の胸をこれ見よがしに小さな手で触りはじめた。皆が皆、顔をほころばせた。
安寿と航志朗が離れの部屋に戻ると、安寿は部屋のすみで丸くなって座った。そして、安寿は航志朗に背を向けて激しく泣きはじめた。
航志朗は安寿の後ろに座って安寿を向き直らせると、腕の中にしっかりと包み込んだ。安寿は航志朗に抱きついた。安寿は小さな子どものように大声をあげて泣いた。しゃくりあげながら、安寿は航志朗に訴えた。
「私は、悲しくて泣いているんじゃないんです」
航志朗は腕の力を強めて言った。
「わかってる。嬉しいんだよな、安寿」
安寿はきつく航志朗にしがみついた。
(そう。私は嬉しいんだ。あんなに優しい言葉をかけてもらって。でもそれだけじゃない。本当はものすごくつらくて哀しい。また明日、彼と別れなければならないから)
安寿の目にまた涙があふれ出てきた。
航志朗は安寿の温もりを感じながら考えていた。
(もし、安寿が渡辺さんの家族に迎えられていたら、今、ここで、安寿と俺はこうしていられなかった)
急に航志朗の胸の鼓動が早くなった。
(俺は絶対に安寿を離さない。これから何があろうとも)
安寿と航志朗は一組の布団の中に入った。互いの存在を求め合い、きつく抱き合う。安寿は最後の夜の航志朗の匂いと温もりを心の底から愛おしむように、航志朗の胸に自分の顔を押しつけた。航志朗は安寿をしっかりと腕の中に抱きしめた。安寿の手は航志朗が着ているパジャマを強くつかみ、安寿はその下の航志朗の身体を意識した。またあの得体の知れない感覚がやって来る。安寿はどうしようもなく航志朗にしがみついた。
そして、安寿は自覚した。
(私は、もう、心の準備ができている……)
今日は日曜日だ。土師や本間夫妻をはじめ、渡辺の農業法人のスタッフたちが集まって昼食会を開くことになった。早朝から恵と希世子は大量のジャガイモを洗って、皮はむかずにカットして大鍋に入れていた。ふたりは航志朗のリクエストのカレーをつくっている。
安寿は敬仁の子守りをしていた。なんとか安寿は敬仁のご機嫌を損ねずに抱っこできるようになった。
渡辺と航志朗は庭に大きなテーブルを設置していた。正午前になると農業法人のスタッフたちが手料理を持ち寄ってやって来て、昼食会が開かれた。子どもたちもたくさんやって来た。
さっそくサッカーボールを持って来た勇生が航志朗を誘って遊び始めた。それを目に入れて心配した恵が、子どもたちに囲まれた航志朗に大声で怒鳴った。
「ちょっと、航志朗さん! ほどほどにしてね!」
恵の背中を軽く叩いた渡辺が苦笑いしながら言った。
「恵ちゃん、大丈夫だよ。彼は若いんだからさー。だって、まだ二十代だろ」
その言葉に思いきり恵は仏頂面をした。恵はもうすぐ四十代に突入するからだ。渡辺よりも三か月早くに。
安寿は土師のことが心配で仕方がなかった。にぎやかな集まりの中で、うつむいた土師は一人でぽつんとカレーを口に運んでいる。あの後どうなったのか、何も土師に訊くことはできない。だが、土師の様子を見ればじゅうぶん推し量れる。
(あの絵は、土師さんのお役に立てなかったんだ……)
安寿は遠くを見てため息をついた。
最後の夜は、家族だけでゆっくりと過ごした。夕食後、リビングルームに集ってほうじ茶を飲んでいると、突然、希世子が安寿に言い出した。
「安寿ちゃん。ずっと、私、あなたに謝りたかったの。本当にごめんなさい。もちろん、恵さんにもよ」
安寿はわけがわからずに恵の顔を見た。恵は敬仁を胸に抱きながら、希世子に微笑んで言った。
「お義母さん、ありがとうございます。今、安寿も私もとても幸せですから、もう謝らないでください」
希世子は涙ぐんで安寿に言った。
「安寿ちゃん、私ね、とてもとても後悔しているの。恵さんのご両親がお亡くなりになった時に、どうして私たちは恵さんと安寿ちゃんを私たちのところへ家族として迎えなかったんだろうって。優仁が、恵さんを中学生の頃からずっと好きだったことを知っていたのに」
安寿は希世子の瞳を見つめた。まだ会って十日も経っていないのに、懐かしい光を帯びている。安寿は胸がしめつけられた。
希世子は話を続けた。
「ドイツから日本に戻って来て、すぐに私たちはここに来たの。ここはもともと優仁の父方の曾祖父が開拓した土地なの。優仁の祖父は農家を継ぐのが嫌で、単身で上京してしまったんだけどね。ドイツにいた時から、直仁さんは、有機農業のことを一生懸命勉強していたけれど、実際はまったく経験のない素人だった。本当にはじめは大変だったの。法人化して若い人たちもたくさん雇ってしまったし。それでも私たちは、恵さんと安寿ちゃんを家族に迎え入れるべきだった」
渡辺が強い口調で口を挟んだ。
「いや、お母さん、この僕が悪かったんだ! 僕が勇気がなかった。僕がもっと早くに、安寿ちゃんごと恵と結婚するべきだったんだ!」
黙ってふたりの話を聞いていた恵が、敬仁に頬を寄せながらゆっくりと優しく言った。
「ありがとう、お義母さんも優ちゃんも。おふたりとも、もういいのよ。だって、もし、その時、優ちゃんと私が結婚していたら、敬仁は、今、ここには、いなかったことになるでしょう」
恵は敬仁の顔に愛おしそうに頬を擦りつけた。
全員が敬仁を見つめた。敬仁はお腹が空いたのか、恵の胸をこれ見よがしに小さな手で触りはじめた。皆が皆、顔をほころばせた。
安寿と航志朗が離れの部屋に戻ると、安寿は部屋のすみで丸くなって座った。そして、安寿は航志朗に背を向けて激しく泣きはじめた。
航志朗は安寿の後ろに座って安寿を向き直らせると、腕の中にしっかりと包み込んだ。安寿は航志朗に抱きついた。安寿は小さな子どものように大声をあげて泣いた。しゃくりあげながら、安寿は航志朗に訴えた。
「私は、悲しくて泣いているんじゃないんです」
航志朗は腕の力を強めて言った。
「わかってる。嬉しいんだよな、安寿」
安寿はきつく航志朗にしがみついた。
(そう。私は嬉しいんだ。あんなに優しい言葉をかけてもらって。でもそれだけじゃない。本当はものすごくつらくて哀しい。また明日、彼と別れなければならないから)
安寿の目にまた涙があふれ出てきた。
航志朗は安寿の温もりを感じながら考えていた。
(もし、安寿が渡辺さんの家族に迎えられていたら、今、ここで、安寿と俺はこうしていられなかった)
急に航志朗の胸の鼓動が早くなった。
(俺は絶対に安寿を離さない。これから何があろうとも)
安寿と航志朗は一組の布団の中に入った。互いの存在を求め合い、きつく抱き合う。安寿は最後の夜の航志朗の匂いと温もりを心の底から愛おしむように、航志朗の胸に自分の顔を押しつけた。航志朗は安寿をしっかりと腕の中に抱きしめた。安寿の手は航志朗が着ているパジャマを強くつかみ、安寿はその下の航志朗の身体を意識した。またあの得体の知れない感覚がやって来る。安寿はどうしようもなく航志朗にしがみついた。
そして、安寿は自覚した。
(私は、もう、心の準備ができている……)