今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
安寿がリビングルームに戻ってくると、ソファに座ってぼんやりと炭酸水を飲んでいた航志朗が目を見開いて顔を赤らめた。安寿はあのワンピースを着て素足で立っている。ネイビーの生地に羽根のような刺繍がしてある結婚当初に航志朗が安寿に贈ったワンピースだ。髪が長く伸びた安寿が着ると、また違う急に大人びた雰囲気になる。航志朗はすぐに立ち上がって安寿を腕の中に抱きしめた。安寿は航志朗の背中におずおずと両手を回した。航志朗はキスしようとかがんだが、あわててそれを止めて言った。
「俺も風呂に入ってくる」
安寿は何も言わずにうなずいた。
安寿は航志朗の飲みかけの炭酸水を口にしてから、スーツケースからスケッチブックとペンケースを取り出すと胸に抱えて階段を上った。ベッドルームに入ると、クローゼットの中からシーツを持って来て丁寧にベッドに敷いた。それから、ライトを消して、カーテンを開けた。窓の外には少し欠けた月が浮かんでいる。安寿は月をスケッチし始めた。
風呂から上がった航志朗がリビングルームに戻ってくると、安寿の姿がない。
「……安寿?」
心底あせった航志朗はあちこちで安寿を探したが、安寿はどこにもいない。急いで航志朗は階段を駆け上った。ベッドルームのドアを手荒く開けると、カーペットの上に座った安寿の後ろ姿が見えた。窓から月の光が柔らかく差し込んできて、安寿は淡く光っている。ほっと安堵した航志朗は安寿の後ろに座って、後ろから安寿をきつく抱きしめた。そして、航志朗は気づいた。スケッチブックの上に安寿が白い月を描いている。
安寿は小さな声でゆっくりと言った。
「今夜の月を描いておきたかったんです」
ひそかに安寿は思った。
(今夜のことをいつまでも覚えていられるように……)
安寿は頬を赤らめて微笑んだ。たまらずに航志朗は安寿に口づけて、そのままカーペットの上に安寿を押し倒した。安寿は静まった声で言った。
「航志朗さん、ちょっと待って。私、手が鉛筆で汚れてしまったので洗ってきます」
航志朗が身体を離すと安寿は起き上がってベッドルームから音もなく出て行った。
一人になった航志朗はスケッチブックを手に持って安寿の白い月の絵に見入った。その月は少し欠けている。航志朗はその欠けた部分を指でなぞった。すると、突然、航志朗は背後ですすり泣いている女の気配を感じた。反射的に航志朗は振り返ったが、そこには誰もいない。顔を歪めて両手で髪をかきむしり航志朗は頭を抱えた。
(俺は本当のことを安寿に話さなければならない。たとえ二度と安寿が俺に微笑んでくれなくなっても……)
安寿がミネラルウォーターのボトルを胸に抱えてベッドルームに戻って来た。安寿はベッドに腰掛けた航志朗の隣に座った。深々と航志朗はうつむいている。
航志朗は顔を上げると安寿に寂しそうに微笑んだ。胸をしめつけられながら安寿は航志朗を見つめた。安寿にはわかる。航志朗は何かに苦しんでいる。自然に安寿は航志朗の手に自分の手をそっと重ねた。
航志朗が口を開いた。
「安寿、俺の話を聞いてほしい」
安寿は思い詰めた表情をしている航志朗にうなずいた。
「俺は、子どもの頃からずっと不眠症なんだ」
安寿は正直驚いた。安寿は航志朗のぐっすりと眠った寝顔をいくつも知っている。
「大学の時がいちばんひどかった。毎晩、ひと晩中、ぜんぜん眠れないんだ。ドクターのところにも行った。彼女は数種類の睡眠導入剤を大量に出してくれたよ。もちろん服用した。朝まで眠れる。でも、翌朝目が覚めると、ものすごくつらいんだ。いきなり見たくもない現実が重くのしかかってくるように感じて。もう薬は飲みたくない。それでも俺は眠りたかった。そう、ただ一つだけ眠る方法があった」
急に航志朗は安寿の手を離して冷たい口調で言った。
「ガールフレンドと寝れば、俺は眠れた。だから、その時、俺の隣にいたガールフレンドと俺は寝た。……愛してもいないのに」
胸を突かれて安寿は航志朗を見つめた。航志朗はうつむいて苦しそうに頭を抱えた。
「本当の俺は最低な人間だ。安寿、君は心の底から俺を軽蔑するよな……」
すぐに安寿は首を振った。だが、その姿はうつむいた航志朗には見えなかった。落ち着いた声で安寿は強く言い放った。
「航志朗さん。私、あなたを軽蔑なんてしません。……絶対に」
その言葉に驚いた航志朗は顔を上げて安寿を呆然と見つめた。
航志朗の腕に額をつけて安寿はささやくように言った。
「私、航志朗さんがとてもつらかった時に、あなたのそばにいたかった」
「安寿……」
航志朗は琥珀色の瞳を潤ませた。安寿はその瞳の奥に沈んでいる哀しみを痛いほど感じる。安寿は心の奥底から祈るように覚悟を決めた。
(今、私のすべてで彼を抱きしめる)
安寿はひたむきなまなざしで航志朗を見つめて言った。
「航志朗さん、今夜はぐっすり眠ってください。……私を利用して」
「『利用』って、何言ってんだよ、安寿。君は……」
「俺も風呂に入ってくる」
安寿は何も言わずにうなずいた。
安寿は航志朗の飲みかけの炭酸水を口にしてから、スーツケースからスケッチブックとペンケースを取り出すと胸に抱えて階段を上った。ベッドルームに入ると、クローゼットの中からシーツを持って来て丁寧にベッドに敷いた。それから、ライトを消して、カーテンを開けた。窓の外には少し欠けた月が浮かんでいる。安寿は月をスケッチし始めた。
風呂から上がった航志朗がリビングルームに戻ってくると、安寿の姿がない。
「……安寿?」
心底あせった航志朗はあちこちで安寿を探したが、安寿はどこにもいない。急いで航志朗は階段を駆け上った。ベッドルームのドアを手荒く開けると、カーペットの上に座った安寿の後ろ姿が見えた。窓から月の光が柔らかく差し込んできて、安寿は淡く光っている。ほっと安堵した航志朗は安寿の後ろに座って、後ろから安寿をきつく抱きしめた。そして、航志朗は気づいた。スケッチブックの上に安寿が白い月を描いている。
安寿は小さな声でゆっくりと言った。
「今夜の月を描いておきたかったんです」
ひそかに安寿は思った。
(今夜のことをいつまでも覚えていられるように……)
安寿は頬を赤らめて微笑んだ。たまらずに航志朗は安寿に口づけて、そのままカーペットの上に安寿を押し倒した。安寿は静まった声で言った。
「航志朗さん、ちょっと待って。私、手が鉛筆で汚れてしまったので洗ってきます」
航志朗が身体を離すと安寿は起き上がってベッドルームから音もなく出て行った。
一人になった航志朗はスケッチブックを手に持って安寿の白い月の絵に見入った。その月は少し欠けている。航志朗はその欠けた部分を指でなぞった。すると、突然、航志朗は背後ですすり泣いている女の気配を感じた。反射的に航志朗は振り返ったが、そこには誰もいない。顔を歪めて両手で髪をかきむしり航志朗は頭を抱えた。
(俺は本当のことを安寿に話さなければならない。たとえ二度と安寿が俺に微笑んでくれなくなっても……)
安寿がミネラルウォーターのボトルを胸に抱えてベッドルームに戻って来た。安寿はベッドに腰掛けた航志朗の隣に座った。深々と航志朗はうつむいている。
航志朗は顔を上げると安寿に寂しそうに微笑んだ。胸をしめつけられながら安寿は航志朗を見つめた。安寿にはわかる。航志朗は何かに苦しんでいる。自然に安寿は航志朗の手に自分の手をそっと重ねた。
航志朗が口を開いた。
「安寿、俺の話を聞いてほしい」
安寿は思い詰めた表情をしている航志朗にうなずいた。
「俺は、子どもの頃からずっと不眠症なんだ」
安寿は正直驚いた。安寿は航志朗のぐっすりと眠った寝顔をいくつも知っている。
「大学の時がいちばんひどかった。毎晩、ひと晩中、ぜんぜん眠れないんだ。ドクターのところにも行った。彼女は数種類の睡眠導入剤を大量に出してくれたよ。もちろん服用した。朝まで眠れる。でも、翌朝目が覚めると、ものすごくつらいんだ。いきなり見たくもない現実が重くのしかかってくるように感じて。もう薬は飲みたくない。それでも俺は眠りたかった。そう、ただ一つだけ眠る方法があった」
急に航志朗は安寿の手を離して冷たい口調で言った。
「ガールフレンドと寝れば、俺は眠れた。だから、その時、俺の隣にいたガールフレンドと俺は寝た。……愛してもいないのに」
胸を突かれて安寿は航志朗を見つめた。航志朗はうつむいて苦しそうに頭を抱えた。
「本当の俺は最低な人間だ。安寿、君は心の底から俺を軽蔑するよな……」
すぐに安寿は首を振った。だが、その姿はうつむいた航志朗には見えなかった。落ち着いた声で安寿は強く言い放った。
「航志朗さん。私、あなたを軽蔑なんてしません。……絶対に」
その言葉に驚いた航志朗は顔を上げて安寿を呆然と見つめた。
航志朗の腕に額をつけて安寿はささやくように言った。
「私、航志朗さんがとてもつらかった時に、あなたのそばにいたかった」
「安寿……」
航志朗は琥珀色の瞳を潤ませた。安寿はその瞳の奥に沈んでいる哀しみを痛いほど感じる。安寿は心の奥底から祈るように覚悟を決めた。
(今、私のすべてで彼を抱きしめる)
安寿はひたむきなまなざしで航志朗を見つめて言った。
「航志朗さん、今夜はぐっすり眠ってください。……私を利用して」
「『利用』って、何言ってんだよ、安寿。君は……」