今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 二杯目のコーヒーを淹れようと航志朗は立ち上がった。ふとダイニングテーブルの上に置いたままのスマートフォンが目に入った。昨日から着信音をオフにしている。手に取ると十九件着信が入っていることに気づいた。すべてシンガポールのアンからだった。航志朗は安寿に言った。

 「安寿、アンから電話が来ていたんだ。ちょっと折り返し電話をしてもいいかな」

 不意に安寿は胸がずきっと痛んだ。真っ黒な罪悪感に取り囲まれて、身体じゅうが硬直する。だが、すまなそうに航志朗が自分を見つめていることに気づいて、あわてて安寿はうなずいた。

 スマートフォンを繰って、すぐに航志朗は英語で話し出した。思わず安寿は聞き耳を立ててしまった。

 「……ああ、アンか。今、東京にいるんだ。昨日のソウルのアポイントメントが延期になったこと、報告が遅れてすまなかった」

 アンはそれには答えずにほっとしたように言った。

 『コーシ、やっとおまえの声が聞けて嬉しいよ! 実は、昨日、ヴィーとドクターのところに行って来たんだ』

 航志朗はすぐに思い当たった。アンの次の言葉を航志朗は待った。

 『コーシ! ヴィーが妊娠したんだ!』

 「そうか、妊娠したか。アン、おめでとう!」

 安寿はその単語を聞き取って全身が震えた。

 (妊娠(プレグナント)!)

 航志朗は嬉しそうに笑顔で言った。

 「アン、俺もとても嬉しいよ。父親になるんだな……」

 (父親(ファザー)……)

 手が震えて、もう安寿はティーカップが持てない。

 『それだけじゃないんだ! お腹のベビーは、双子(ツインズ)なんだよ!』

 (そうか、双子か)

 航志朗はアンとヴァイオレットの結婚パーティーでヴァイオレットの曾祖母がふたりに言い渡していた予言めいた言葉を思い出した。

 (本当に未来が見えていたんだ……)

 航志朗の背筋に冷たいものが走った。

 最後にアンは航志朗に甘えるように大声で言った。

 『コーシィィ、心細いから一緒にパパになろうよ。頼むから、おまえも早くアンジュとベビーを迎えてくれよー!』

 アンの背後から会社のスタッフたちのくぐもった笑い声が聞こえてくる。航志朗も肩を小刻みに揺すって笑いながら電話を切った。

 ソファに座ってうつむいている安寿の隣に航志朗は座った。航志朗は当然のように安寿の肩に手を回して抱き寄せた。安寿は両手で顔を覆った。

 (昨日の夜は、航志朗さんと一緒に過ごせる最後の夜だったんだ。もう彼とは一緒にいられない。でも、絶対に私は後悔しない)

 安寿は顔を上げると懸命に笑顔をつくって言った。

 「航志朗さん、おめでとうございます」

 「聞こえていたのか。そうだな、おめでたいな」

 航志朗は安寿の顔を両手で引き寄せてキスしようとしたが、安寿は航志朗から身を離した。

 「ん? どうした、安寿」

 無表情で安寿は冷たく言った。

 「もう私に触らないでください」

 「……安寿?」

 いぶかしげに航志朗は安寿を見つめた。

 「航志朗さんは、お父さんになるんですから」

 「なんだって?」

 思いきり航志朗は顔をしかめた。

 「だから、私はここを出て行きます」

 突然、安寿は立ち上がった。だが、ふらついてよろけた。手を伸ばして航志朗は安寿の身体を支え、そのまま安寿を膝の上に乗せて抱きしめた。安寿は顔を歪めて目にはみるみる涙がたまってくる。

 航志朗は大声で怒鳴った。

 「安寿、ちょっと待て! 君は何か思い違いをしているんじゃないのか」

 安寿は航志朗の腕の中から逃れようともがきながら叫んだ。

 「離して! ……離してください!」

 安寿の両頬に大粒の涙がこぼれ始めた。航志朗は安寿を離さない。力を込めて思いきり安寿を抱きすくめた。また安寿は大声で叫んだ。

 「だって、航志朗さんはアンさんとの赤ちゃんのお父さんになるんでしょ! 私たちはもう一緒にいられない!」

 安寿は大泣きし始めた。

 航志朗は深いため息をついて、努めて穏やかな声で安寿に優しく語りかけた。

 「安寿、一緒に深呼吸しようか」

 航志朗は安寿をうながして何回も深呼吸をさせた。少しずつ安寿の荒い呼吸が治ってくる。航志朗は安寿の背中をさすりながら、一字一句確実に言った。

 「安寿、落ち着いてよく聞くんだ。妊娠したのは、アンの妻のヴァイオレットだ。アンは男だよ」
 
 安寿は真っ赤な目をして、呆然と航志朗の顔を見つめた。

 「君はアンのことを女だと思って、ずっと俺の彼女かなんかだと思っていたのか?」

 安寿はこくりとうなずいた。航志朗はまたため息をついた。

 「いつからそう思っていたんだ、安寿?」

 しゃくりあげながら安寿は答えた。

 「初めて、航志朗さんが、アンさんと英語で話すのを聞いた時から……」

 「それって、いつだ?」

 「一緒に鰻を食べた時に……」

 航志朗はこみ上げて来た笑いを必死になってかみ殺した。

 「長い間ずっと君は誤解していたんだな」

 深いため息をついた航志朗は安寿の髪をなでながら、ふと気づいた。

 (んん? ずっと安寿は女だと思っていたアンに嫉妬していたってことか。……と、いうことは!)

 恐る恐る航志朗は尋ねた。

 「安寿、君はもしかして俺のことが好き……、なのか?」

 うつむいた安寿は小さくうなずいた。航志朗は赤くなってあわてふためいた。すぐに安寿の顔をのぞき込んでまた尋ねた。

 「……本当か、安寿?」

 また安寿はうなずいた。そして、小声で何か言った。

 「ん? なんて言ったんだ? 聞こえなかった」

 突然、顔を真っ赤にした安寿は、激怒したかのように大声で怒鳴った。

 「好きじゃなかったら、あんなことするわけないでしょ!」

 いきなり脳天を撃沈されて、航志朗はがくっと頭を下げた。

 (確かに安寿の言う通りだ。……ん? 今、安寿、俺のことを遠回しに「好き」って言ったんじゃないのか!)

 顔を上げて航志朗は安寿の顔を至近距離で凝視した。安寿は仏頂面で航志朗を見返した。顔を崩して航志朗が叫んだ。

 「安寿、君を愛してる、愛してる!」

 航志朗は安寿を力の限り抱きしめた。航志朗のなすがままに、安寿は航志朗の胸に顔をうずめて涙を流した。

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