今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 陽が落ちて薄暗くなってきた。マンションのキッチンでエプロンを身につけた安寿は夕食をつくっている。今日も仕事をしないと決めた航志朗は安寿の後ろから腰に手を回して抱きしめていた。

 (準備万端だし、もちろん今夜もオーケーだよな。明日また離れることになるんだから。いや、毎週末なんとかして帰って来て、彼女と……)

 甘い妄想が頭をもたげて航志朗は安寿に回した腕を強めた。

 安寿は優しい口調で文句を言った。

 「航志朗さん、お料理しづらいですよ」

 「俺はもう君を放さない」

 安寿は顔を赤くしてうつむいて、小さくため息をついた。

 夕食を食べ終わると、ふたりは一緒に後片づけをした。安寿は米を研いで浸水し、炊飯器の予約時間を午前七時に設定した。朝食の下準備だ。明日の正午すぎのフライトで航志朗はソウルに旅立つ。
 
 二つのマグカップにカモミールティーを入れてから、安寿はスケッチブックを持ってソファに座った。安寿は植物園で見た木漏れ日を描き出した。航志朗は隣で絵を描く安寿を見つめていた。部屋の中はしんとしていて、安寿が握った鉛筆がさらさらと画用紙を擦る音だけが響く。やがて、円い形をした木漏れ日がまっさらだった白い紙の上に浮かび上がってくると、風に揺らされてざわめく樹々の音が聞こえてきた。目を閉じた航志朗は耳をすましてその音を聞いた。

 その時、航志朗は、目の前に小さな女の子がしゃがんでいるのを見た。

 その女の子は画板の上に固定された画用紙の上に一心に何かを描いている。

 なんとなく心が惹かれて、航志朗は女の子に尋ねた。

 「君さ、何を描いているの?」

 女の子は航志朗を見上げると、仏頂面をしてぶっきらぼうに答えた。

 「……じめんのした」

 「地面の下?」

 黙ったまま、女の子はうなずいた。

 航志朗は不思議に思った。

 (「地面の下」なんて目に見えないんだから、絵に描けるわけがないだろ……)

 そのわけを航志朗はどうしても女の子に訊きたくなった。

 「ねえ、君はどうして地面の下なんて描いているの?」

 また女の子は航志朗を見上げて無表情に言った。

 「じめんのしたで、ママがねむっているから」

 その言葉に航志朗は凍りついた。

 (君は、……安寿)

 「航志朗さん、……航志朗さん」

 航志朗は目を開けた。ソファでうたた寝をしていたのだ。安寿が心配そうにのぞき込んでいる。

 「ここで眠ってしまったら、風邪をひいてしまいます。どうぞ先にお風呂に入って休んでください。明日からお仕事ですし」

 ぼんやりとしたまま航志朗はうなずいてバスルームに向かった。バスタブの湯に浸かりながら航志朗は考えた。

 (さっきのはなんだったんだ。夢か? それとも、忘れていた昔の出来事……)

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