今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 濡れた髪をタオルで拭きながら航志朗がリビングルームに戻ってくると、航志朗の腕にそっと手を触れて安寿は優しく声をかけた。

 「航志朗さん、どうぞ先に眠ってくださいね」

 着替えを手に抱えた安寿はバスルームに行った。

 (一緒にいるのに、ひとりで眠れるわけがないだろ)

 毛布を膝にかけてベッドのヘッドボードに寄りかかった航志朗は炭酸水を飲みながら深いため息をついた。敷いたばかりのまっさらなシーツをなでる。

 (でも、昨日の今日だ。彼女のために今夜は控えたほうがいいよな……)

 しばらくしてから、スタンドライトだけが灯った薄暗いベッドルームにパジャマ姿の安寿がやって来た。航志朗は起きたままだ。航志朗は安寿に向かって微笑んだ。ドアを背にして、安寿は一度深呼吸をした。そして、音もなく安寿は航志朗の隣に座って、迷うことなくパジャマのボタンを外し始めた。目を見開いた航志朗はあわててその手を止めて言った。

 「安寿、今夜はやめておこう。君に無理をさせたくない」

 安寿は申しわけなさそうな表情を浮かべて言った。

 「でも、航志朗さんは明日からお仕事なんですから、今夜はよく眠っておかないと。私は大丈夫ですから」

 航志朗は苦笑いして、安寿を抱きしめながら横になった。

 「君とこうしているだけで、俺は眠れるから大丈夫だよ」

 口をへの字に曲げて安寿は心配そうに航志朗を見つめた。安寿の妙に生真面目な態度に内心可笑しくなった航志朗は、安寿の髪を触りながらわざと真剣に言った。

 「もちろん君がそうしたいって言うのなら、俺は君が満足するまでいくらでもしてあげられるけど」

 その言葉に動揺した安寿が顔を赤らめたのを見て、こらえきれずに航志朗は安寿の肩に顔をうずめてくすくす笑い出した。

 「もう、航志朗さんったら!」 
 
 からかわれているのがわかって、仏頂面をした安寿は航志朗に背を向けてパジャマのボタンをとめ始めた。すぐに航志朗は安寿を後ろから抱きしめた。そして、心を込めてささやいた。 

 「安寿、君を愛している」

 安寿はうなずいて微笑みながら横になって目を閉じた。

 時刻は十時を過ぎたが、まだふたりは眠れない。航志朗がふと安寿に尋ねた。

 「安寿、君に訊きたいことがある」

 「はい」

 安寿は航志朗に向き直った。

 「君はこれからどんな絵を描いていきたいんだ?」

 それは安寿にとって予想外の質問だった。

 「大学で、ですか?」

 「いやライフワークというか、君の人生で」

 しばらく考えてから、安寿は言った。

 「まだ、わかりません。ただ……」

 安寿は曲線を描く天井を見上げた。

 「ただ?」

 航志朗も安寿の目線を追った。

 「私、大きな絵を描いてみたいんです」

 「大きな絵?」

 「はい。とてもとても大きな絵を。すべてを包み込むような」

 「それは、パブリック・アートということか?」

 「いいえ、違います。私は世間に名を知られるような絵を描きたいとは思いません。ただ、誰かに喜んでもらえるような絵を描きたいんです。この世界のかたすみで、ひっそりと誰にも知られずに……」

 恥ずかしそうに安寿は微笑んだ。

 「そうすれば、きっと私自身が救われるから。私は、今、ここにいていいって、心から思えるかもしれない。……たぶん」

 「安寿……」

 胸を詰まらせて航志朗は安寿を抱きしめた。

 「君は俺を救ってくれている。君はそのままでいい。足りないことなんて何もない。俺はありのままの君を愛している」

 航志朗の熱い想いが安寿の胸のなかに流れ込んでくる。それは赤い血潮になって安寿の身体じゅうをめぐり、安寿の身体の奥底を突き動かす。安寿は心の奥底から航志朗のすべてが欲しいと思う。航志朗の両肩を強くつかんで、安寿は航志朗の琥珀色の瞳をまっすぐに見つめて言った。

 「航志朗さん、私を抱いてください。今、ここで」

 航志朗は安寿の濡れたように光る黒い瞳を見返してうなずいた。

 安寿と航志朗はパジャマを脱いで静かに抱き合った。今、ここで、互いの存在をめいっぱい感じる。微笑み合いながら、ふたりは優しく口づけを交わす。互いの素肌に触れて限りなく愛おしむ。そして、航志朗は安寿のなかにゆっくりと入っていった。ふたりは互いの心地よい揺らぎに身を任せる。揺らぎの波紋はやがて大きな波となり、ふたりを突き上げていく。航志朗にしがみついた安寿は、航志朗の身体の下で声をあげた。熱く航志朗を見つめる安寿の目から温かい涙があふれ出す。微笑みを浮かべた航志朗はそっと唇で安寿の涙を拭った。そのままふたりは抱き合いながら目を閉じた。

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