今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 目を開けた安寿は深く眠った航志朗の腕の中にいることを知った。航志朗の胸に顔を埋めて安寿は心から嬉しくなって微笑んだ。ふと窓辺を見ると閉めきったカーテンの隙間がとても明るく光っている。

 (今、何時だろう……)

 安寿は手を伸ばしてヘッドボードの上に置いてある航志朗のスマートフォンを取って時刻を見た。午前十時だ。

 「たいへん!」

 あわてて起き上がると、安寿は航志朗の肩を揺すりながら声をかけた。

 「航志朗さん、起きてください! もう十時を過ぎましたよ!」

 「んん、安寿、もう一回……」

 寝ぼけながら航志朗は安寿の腰に手を回した。

 「ちょっと……」と言って航志朗の手を払い、安寿は容赦なく大声で言った。

 「だめですよ、お仕事なんですから起きてください! ソウル行きの飛行機は羽田を正午に出発するんでしょう?」

 安寿はパジャマを羽織って言った。

 「航志朗さん、出かける準備をしてください!」

 安寿は小走りでベッドルームを出て行った。

 「さて、今度こそ、ソウルに行って来るか」

 やっと目が覚めた航志朗も起き上がってバスルームに向かった。

 安寿は急いで着替えてキッチンに立った。炊飯器のふたを開けて炊きあがったご飯をしゃもじでほぐす。氷水に浸した手に塩を多めにまぶして、安寿は塩むすびを握った。それからラップで一つずつくるんでから、赤と白のギンガムチェックのリネンハンカチに包んだ。

 着替えた航志朗はスーツケースを開けて荷造りをし始めた。安寿は航志朗に北海道土産の菓子折りを手渡した。

 「航志朗さん、これを鄭さんに渡してください。ご迷惑をおかけしてしまったのでおわびの品です」

 「わかった。ありがとう、安寿。俺もこのお菓子食べたかったな」

 安寿はくすっと笑って言った。

 「もちろん私たちの分も買っておきましたよ。ただし、賞味期限は一か月です。それまでに必ず帰って来てくださいね」

 そう言うと、急に安寿は表情を曇らせた。

 すぐさま航志朗は安寿を抱きしめた。

 「安寿……」

 「お帰りにならなかったら、全部、私が食べてしまいますからね……」

 安寿の声は微かに震えた。

 「絶対に帰って来る」

 ふたりはきつく抱き合って唇を重ねた。

 タクシーがマンションのエントランスにやって来た。運転手がトランクにスーツケースを収めた。安寿は塩むすびの入った包みを航志朗に手渡した。

 「はい、朝食のおにぎりです。お塩だけで具が入っていないので、申しわけないんですけど」

 「ありがとう、安寿」

 航志朗は安寿を抱きしめた。にやにやした運転手に見られていることに気づいて、安寿は顔を真っ赤にさせた。

 「安寿、いってくる」

 「いってらっしゃい、航志朗さん」

 航志朗はタクシーの後部座席に乗り込んだ。笑顔で航志朗は手を振った。微笑んだ安寿もかがんで手を振った。運転手が肩をすくめながらアクセルを踏んだ。

 すぐにタクシーは見えなくなった。安寿はひつじ雲が浮かぶ空を見上げて思った。

 (もうすぐ大学の後期が始まる。私、がんばらなくちゃ……)

 手を振っている安寿が見えなくなった。ため息をついた航志朗は運転手に断ってから膝の上の包みを開けた。まだほんのりと温かい。安寿の優しい思いやりを感じる。おもむろに航志朗は塩むすびをほおばった。

 (ものすごくおいしいな……)

 航志朗は胸をしめつけられた。運転手がサービスだと言って缶入り緑茶を差し出した。礼を言って航志朗は缶を開けて飲んだ。

 運転手がひとりごとのようにぼそっとつぶやいた。

 「なーんだかんだ言っても、そーゆーのが、いちばんうまいんだよね……」

 米粒をよく噛みながら航志朗はうなずいた。

 バックミラーを見ながらにやけた運転手が航志朗に尋ねた。

 「お客さんさあ、新婚さんでしょ? それも新婚ほやほやの」

 頭のなかで計算してから航志朗は答えた。

 「いいえ。結婚して一年五か月です」

 「ええっ、ホントに! 新婚旅行から帰って来たばかりかと思いましたよ」

 「そうですか」

 航志朗は最後の塩むすびを口にした。

 (そうだ。やっと、俺たちは夫婦になれたのかもしれないな……)

 航志朗の胸のなかに温かい気持ちが広がっていった。うつむいて航志朗は人知れず微笑んだ。

 「お客さん、いいねえ、いいねえ。天使みたいなあんなにカーワイイ奥さんがいてさあ」

 羽田空港に到着するまで、運転手は口先をとがらせて何回も「いいねえ」をくり返して言った。

 航志朗のネイビーのジャケットのポケットには、赤と白のギンガムチェックのリネンハンカチが丁寧に折りたたまれて入っている。見覚えのあるハンカチだ。長い間、安寿が弁当を包むのに使ってきたのだろう。ポケットに手を入れて安寿の手の温もりを感じながら、航志朗はソウルに旅立って行った。








 











 







 



 



 


 





















 











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