今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
大教室の中は久しぶりに会った学生たちのにぎやかなおしゃべりで反響している。一限の講義の時間はとっくに始まっているが、担当教授が現れない。帰り支度を始める学生も出てきた。誰かが「いきなり休講かよー、せっかく早起きしたのに!」と大声で怒鳴った。
その時だった。教壇に風流な深い苔色の着物姿の男がすっと現れた。一瞬で大教室が静まり返った。一気に学生たちの視線が教壇に集中した。頰を赤らめて女子学生たちは目を見張ったが、思いきり安寿は顔をしかめた。──黒川皓貴だ。
羽織りの裾をさばいて、黒川は大教室全体に目配りをした。目を細めた黒川と目が合ったような気がして、安寿は背筋に悪寒が走った。安寿の隣では莉子と大翔が顔を見合わせていた。
やおら黒川は口を開いた。落ち着いた上品な声だが冷ややかで、その声を浴びると飛沫氷のように凍りついてしまいそうだ。
「黒川皓貴と申します。前任の濱田教授と交代して、日本美術史概論の後期を担当いたします。どうぞよろしく」
大教室じゅうが騒めいた。黒川はまったく気にも留めずに、急にくだけた口調になって続けた。
「君たちさ、僕の講義には本気で聴講したい学生のみ出席してくれないかな。本気じゃなかったら来なくていいよ、目障りなだけだから。まあ、全員に最低限の単位だけはお情けであげるから、安心して」
そのただならない威圧的な雰囲気を感じた学生たちに緊張が走る。安寿は驚いて黒川を見つめた。薄く笑った黒川が明らかに見返してきて、あわてて安寿は目をそらした。
大教室はしんと静まり返った。にやにやしながら黒川は紙の束を最前列の学生に渡した。
「初回の今日はとりあえず君たちのレベルを知っておきたいから、次のテーマについてこの紙に自由に思うところを書いて提出して。もちろん氏名も忘れずに記入してね」
安寿は前の席から回ってきた真っ白な紙を手に取った。黒川は壇上のインタラクティブホワイトボードに「『美意識』についてどう思うか」と書いた。癖があるが美しい文字だ。思わず安寿はぐっと右手のこぶしを握りしめた。
「書き終わったら、ここに置いていって」
黒川は教卓を軽く叩いた。そして、ふいに黒川は安寿を指さして言った。
「岸安寿さん。君、提出された用紙をまとめて僕の研究室に持って来て。頼んだよ」
いきなりフルネームで指名されて安寿は両肩をびくっとさせた。学生たちが振り返って安寿を見た。莉子と大翔も驚いたように安寿を見た。気まずさを感じながら安寿はうつむいた。時をおかずに優雅な裾さばきで黒川は大教室を出て行った。
学生たちは大騒ぎになった。口ぐちに黒川の印象について言い合う。おおかたは「全員単位はもらえるって言っていたんだから、別に講義に出なくてもいいんじゃないか」という主張に落ち着いている。女子学生たちは「黒川先生って、超かっこいい!」、「三十代半ばくらい?」、「結婚してるの?」と、あちこちでやかましく黄色い声をあげている。
心配そうな面持ちで莉子が安寿に尋ねた。
「安寿ちゃん、もしかして、黒川先生とお知り合いなの?」
うなずいて安寿が言った。
「うん。あのひと、航志朗さんの従兄なの」
「ええっ!」
莉子と大翔は両肩を跳ね上げた。
「確かに言われてみれば、なんとなく似ているかも……」
表情を曇らせて莉子は大翔を見た。眉をひそめて大翔が莉子に言った。
「やっぱり、安寿さんに話しておいたほうがいいな、莉子」
莉子が小さくうなずいた。
大教室はまだ騒めいている。大半の学生は配られた紙を白紙のままで講義机の上に置いて出て行った。
言いづらそうに大翔は重い口を開いた。
「安寿さん、京都の母から聞いた話なんだけど、黒川准教授って、昨年、内密に京都の大学を懲戒免職になったらしいんだ。……複数の女子学生とのトラブルで」
思わず安寿は目を見開いた。
「僕の実家は江戸時代に創業した染色業を代々営んでいて、得意先には京都の伝統工芸家が多いんだ。その関係で大学にも出入りしていて、そこで母が噂を聞いてきたんだ。それで夏休みに帰省した時に、莉子にくれぐれも気をつけろって、何回も言っていた」
大翔の言葉にうなずいて莉子が言った。
「お義母さん、黒川先生が清美大に招聘されたっていうことも聞いていてね、すごく心配されていたの」
嫌な予感が頭のなかをよぎって、安寿は身体をこわばらせた。
「わかった。教えてくれてありがとう」
そう言うと安寿は配られた紙に向かって白いシャープペンシルを走らせた。莉子と大翔は顔を見合わせて困惑した。
三人の他にはもう誰も大教室にいない。書き終わった安寿は無言で立ち上がり、講義机の上に置かれたままの白紙の紙を集め始めた。あわてて莉子と大翔も手伝った。
「私、黒川先生に渡してくるね」と言って、紙の束を持った安寿は大教室を出て行った。莉子がその後を追おうとしたが、すぐに大翔が莉子の肩をつかんで止めた。
「僕が安寿さんと一緒に行く。莉子は先に二限の教室に行ってて」
莉子は渋々うなずいた。駆け足で大翔は安寿の後を追った。
その時だった。教壇に風流な深い苔色の着物姿の男がすっと現れた。一瞬で大教室が静まり返った。一気に学生たちの視線が教壇に集中した。頰を赤らめて女子学生たちは目を見張ったが、思いきり安寿は顔をしかめた。──黒川皓貴だ。
羽織りの裾をさばいて、黒川は大教室全体に目配りをした。目を細めた黒川と目が合ったような気がして、安寿は背筋に悪寒が走った。安寿の隣では莉子と大翔が顔を見合わせていた。
やおら黒川は口を開いた。落ち着いた上品な声だが冷ややかで、その声を浴びると飛沫氷のように凍りついてしまいそうだ。
「黒川皓貴と申します。前任の濱田教授と交代して、日本美術史概論の後期を担当いたします。どうぞよろしく」
大教室じゅうが騒めいた。黒川はまったく気にも留めずに、急にくだけた口調になって続けた。
「君たちさ、僕の講義には本気で聴講したい学生のみ出席してくれないかな。本気じゃなかったら来なくていいよ、目障りなだけだから。まあ、全員に最低限の単位だけはお情けであげるから、安心して」
そのただならない威圧的な雰囲気を感じた学生たちに緊張が走る。安寿は驚いて黒川を見つめた。薄く笑った黒川が明らかに見返してきて、あわてて安寿は目をそらした。
大教室はしんと静まり返った。にやにやしながら黒川は紙の束を最前列の学生に渡した。
「初回の今日はとりあえず君たちのレベルを知っておきたいから、次のテーマについてこの紙に自由に思うところを書いて提出して。もちろん氏名も忘れずに記入してね」
安寿は前の席から回ってきた真っ白な紙を手に取った。黒川は壇上のインタラクティブホワイトボードに「『美意識』についてどう思うか」と書いた。癖があるが美しい文字だ。思わず安寿はぐっと右手のこぶしを握りしめた。
「書き終わったら、ここに置いていって」
黒川は教卓を軽く叩いた。そして、ふいに黒川は安寿を指さして言った。
「岸安寿さん。君、提出された用紙をまとめて僕の研究室に持って来て。頼んだよ」
いきなりフルネームで指名されて安寿は両肩をびくっとさせた。学生たちが振り返って安寿を見た。莉子と大翔も驚いたように安寿を見た。気まずさを感じながら安寿はうつむいた。時をおかずに優雅な裾さばきで黒川は大教室を出て行った。
学生たちは大騒ぎになった。口ぐちに黒川の印象について言い合う。おおかたは「全員単位はもらえるって言っていたんだから、別に講義に出なくてもいいんじゃないか」という主張に落ち着いている。女子学生たちは「黒川先生って、超かっこいい!」、「三十代半ばくらい?」、「結婚してるの?」と、あちこちでやかましく黄色い声をあげている。
心配そうな面持ちで莉子が安寿に尋ねた。
「安寿ちゃん、もしかして、黒川先生とお知り合いなの?」
うなずいて安寿が言った。
「うん。あのひと、航志朗さんの従兄なの」
「ええっ!」
莉子と大翔は両肩を跳ね上げた。
「確かに言われてみれば、なんとなく似ているかも……」
表情を曇らせて莉子は大翔を見た。眉をひそめて大翔が莉子に言った。
「やっぱり、安寿さんに話しておいたほうがいいな、莉子」
莉子が小さくうなずいた。
大教室はまだ騒めいている。大半の学生は配られた紙を白紙のままで講義机の上に置いて出て行った。
言いづらそうに大翔は重い口を開いた。
「安寿さん、京都の母から聞いた話なんだけど、黒川准教授って、昨年、内密に京都の大学を懲戒免職になったらしいんだ。……複数の女子学生とのトラブルで」
思わず安寿は目を見開いた。
「僕の実家は江戸時代に創業した染色業を代々営んでいて、得意先には京都の伝統工芸家が多いんだ。その関係で大学にも出入りしていて、そこで母が噂を聞いてきたんだ。それで夏休みに帰省した時に、莉子にくれぐれも気をつけろって、何回も言っていた」
大翔の言葉にうなずいて莉子が言った。
「お義母さん、黒川先生が清美大に招聘されたっていうことも聞いていてね、すごく心配されていたの」
嫌な予感が頭のなかをよぎって、安寿は身体をこわばらせた。
「わかった。教えてくれてありがとう」
そう言うと安寿は配られた紙に向かって白いシャープペンシルを走らせた。莉子と大翔は顔を見合わせて困惑した。
三人の他にはもう誰も大教室にいない。書き終わった安寿は無言で立ち上がり、講義机の上に置かれたままの白紙の紙を集め始めた。あわてて莉子と大翔も手伝った。
「私、黒川先生に渡してくるね」と言って、紙の束を持った安寿は大教室を出て行った。莉子がその後を追おうとしたが、すぐに大翔が莉子の肩をつかんで止めた。
「僕が安寿さんと一緒に行く。莉子は先に二限の教室に行ってて」
莉子は渋々うなずいた。駆け足で大翔は安寿の後を追った。