今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
白紙の束を胸に抱えて安寿は研究棟に向かった。一階に掲示されたフロアマップを見ると、黒川の研究室は404号室だ。深呼吸をして安寿はフロアマップの隣にあるエレベーターのホールボタンを押した。
ずっと安寿の耳の奥には航志朗の言葉が響いていた。
「安寿、皓貴さんには絶対に近づくな!」
エレベーターがやって来た。全身を緊張させて乗り込もうとすると、突然、大翔が駆け込んできた。驚いて安寿は声をあげた。
「大翔くん! どうして?」
「安寿さんを一人で行かせられない。僕も一緒に行くよ」
申しわけなさそうに安寿は礼を言った。
「大翔くん、ありがとう。本当は、ちょっと怖かったの」
大翔はにっこりと優しく笑った。
安寿と大翔は404号室の前に立った。ドアの横に掲示されているネームプレートには「黒川皓貴准教授」と書かれてあり、下部に「在室」と表示されている。
「ちょっと行ってくるね」と安寿は大翔に小声で言って、ドアをノックした。中から「安寿さん、どうぞ」と黒川の親しげな声がした。
(「安寿さん」って、なんだよ!)
大翔は思わず腹が立った。心配そうな表情の大翔を置いて、安寿は一人で中に入った。
黒川の研究室は意外に広く、デスクと一面のブックシェルフの他に応接セットが置いてあり、ミニキッチンの上にはIHクッキングヒーターが設置されている。その上にはシンプルなデザインの鉄瓶が置かれていた。ソファの上に座ってくつろぎながら、黒川はお茶を啜っていた。
「やあ、安寿さん。ご足労をおかけしたね。君も僕と一緒にお茶をいかが?」
丁重なのか粗略なのか判断がつかない言葉を投げかけられた。何も言わずに安寿は紙の束をデスクの上に置いた。その安寿の後ろ姿を黒川は興味深そうに見つめた。
「では、私はこれで失礼いたします」
なんの感情も込めずに言って、安寿はドアに向かった。
ふいに黒川はにやっと笑って言った。
「安寿さん。しばらくお会いしないうちに、君、変わったね」
思わず安寿は胸をどきっとさせた。
黒川は立ち上がった。覚えのある独特な香りが黒川のまとった着物から漂う。黒川は不躾に安寿のそばに寄って、いきなり安寿の腰に手を回した。冷たい指先が安寿の肌に喰い込んだ。安寿は身体が硬直して動けなくなった。
黒川は思いのほか低く響く声で言った。
「ふーん……。やっちゃったんだ」
安寿は顔を真っ赤にさせた。
「もう少し大事に取っておけばよかったのに。もったいないなあ……」
安寿は力を振り絞って叫んだ。
「あ、あの!」
にやっと笑って、黒川は安寿に顔を近づけてきた。
「それにしても君って美人じゃないけど、なんだか可愛いよね……」
その時、荒々しくドアを開けて大翔が研究室に飛び込んで来た。
「安寿さん、行こう!」
黒川に冷ややかな視線を投げつけた大翔は安寿の腕をつかんで引っぱった。
「大翔くん!」
安寿は大翔の筋肉質の太い腕をもう片方の手で握った。
「……誰? もしかして、安寿さんの不倫相手とか」
品よく手を口に当てて笑いながら、黒川はゆっくりとソファに座った。すぐさま安寿と大翔は黒川の研究室を出て行った。
エレベーターではなく階段を使って、しっかりと手をつないだ安寿と大翔は一階に駆け下りた。やっと我に返ったふたりは手を離した。
「安寿さん、大丈夫? 莉子が心配している。さあ、行こう」
安寿は下を向いて礼を言った。
「大翔くん、本当にありがとう……」
志野焼の白釉の抹茶椀を空にして黒川は立ち上がり、デスクの上に置かれた紙の束を手に持った。ぱらぱらとめくるが何も書かれていない。無表情のまま黒川は紙の束をダストボックスに放り込んだ。
「ん?」
何か書いてある紙があることに黒川は気づいた。それを手に取って目を通すと、黒川はにやりと笑った。
『美意識』とは、本来、誰もが生まれながらに授かっている目に見えない『美しい力』のことだと思います。そして、大切なのは、まず、その『美しい力』が、自分のなかに存在していることに気づくこと。そして、その力を喜びを持って、外の世界に還元することだと思います。
黒川はひとりごちた。
「ふうん……。岸安寿、なかなか面白い女だね」
ずっと安寿の耳の奥には航志朗の言葉が響いていた。
「安寿、皓貴さんには絶対に近づくな!」
エレベーターがやって来た。全身を緊張させて乗り込もうとすると、突然、大翔が駆け込んできた。驚いて安寿は声をあげた。
「大翔くん! どうして?」
「安寿さんを一人で行かせられない。僕も一緒に行くよ」
申しわけなさそうに安寿は礼を言った。
「大翔くん、ありがとう。本当は、ちょっと怖かったの」
大翔はにっこりと優しく笑った。
安寿と大翔は404号室の前に立った。ドアの横に掲示されているネームプレートには「黒川皓貴准教授」と書かれてあり、下部に「在室」と表示されている。
「ちょっと行ってくるね」と安寿は大翔に小声で言って、ドアをノックした。中から「安寿さん、どうぞ」と黒川の親しげな声がした。
(「安寿さん」って、なんだよ!)
大翔は思わず腹が立った。心配そうな表情の大翔を置いて、安寿は一人で中に入った。
黒川の研究室は意外に広く、デスクと一面のブックシェルフの他に応接セットが置いてあり、ミニキッチンの上にはIHクッキングヒーターが設置されている。その上にはシンプルなデザインの鉄瓶が置かれていた。ソファの上に座ってくつろぎながら、黒川はお茶を啜っていた。
「やあ、安寿さん。ご足労をおかけしたね。君も僕と一緒にお茶をいかが?」
丁重なのか粗略なのか判断がつかない言葉を投げかけられた。何も言わずに安寿は紙の束をデスクの上に置いた。その安寿の後ろ姿を黒川は興味深そうに見つめた。
「では、私はこれで失礼いたします」
なんの感情も込めずに言って、安寿はドアに向かった。
ふいに黒川はにやっと笑って言った。
「安寿さん。しばらくお会いしないうちに、君、変わったね」
思わず安寿は胸をどきっとさせた。
黒川は立ち上がった。覚えのある独特な香りが黒川のまとった着物から漂う。黒川は不躾に安寿のそばに寄って、いきなり安寿の腰に手を回した。冷たい指先が安寿の肌に喰い込んだ。安寿は身体が硬直して動けなくなった。
黒川は思いのほか低く響く声で言った。
「ふーん……。やっちゃったんだ」
安寿は顔を真っ赤にさせた。
「もう少し大事に取っておけばよかったのに。もったいないなあ……」
安寿は力を振り絞って叫んだ。
「あ、あの!」
にやっと笑って、黒川は安寿に顔を近づけてきた。
「それにしても君って美人じゃないけど、なんだか可愛いよね……」
その時、荒々しくドアを開けて大翔が研究室に飛び込んで来た。
「安寿さん、行こう!」
黒川に冷ややかな視線を投げつけた大翔は安寿の腕をつかんで引っぱった。
「大翔くん!」
安寿は大翔の筋肉質の太い腕をもう片方の手で握った。
「……誰? もしかして、安寿さんの不倫相手とか」
品よく手を口に当てて笑いながら、黒川はゆっくりとソファに座った。すぐさま安寿と大翔は黒川の研究室を出て行った。
エレベーターではなく階段を使って、しっかりと手をつないだ安寿と大翔は一階に駆け下りた。やっと我に返ったふたりは手を離した。
「安寿さん、大丈夫? 莉子が心配している。さあ、行こう」
安寿は下を向いて礼を言った。
「大翔くん、本当にありがとう……」
志野焼の白釉の抹茶椀を空にして黒川は立ち上がり、デスクの上に置かれた紙の束を手に持った。ぱらぱらとめくるが何も書かれていない。無表情のまま黒川は紙の束をダストボックスに放り込んだ。
「ん?」
何か書いてある紙があることに黒川は気づいた。それを手に取って目を通すと、黒川はにやりと笑った。
『美意識』とは、本来、誰もが生まれながらに授かっている目に見えない『美しい力』のことだと思います。そして、大切なのは、まず、その『美しい力』が、自分のなかに存在していることに気づくこと。そして、その力を喜びを持って、外の世界に還元することだと思います。
黒川はひとりごちた。
「ふうん……。岸安寿、なかなか面白い女だね」