今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 すべての講義を終えて安寿は岸家に帰宅した。屋敷には誰もいない。岸は安寿が東京に戻った日に毎年恒例のスケッチ旅行に出かけていた。おとといから休暇を取って、伊藤夫妻も三重に行っている。

 すぐに安寿はバスタブに湯を張り風呂に入った。湯に浸かりひと息つくと、薄目を開けて安寿は自分の裸を見下ろした。相変わらず胸は小さい。だが、なんとなく身体つきが変わった気がした。安寿は背中を丸めて自分の膝を抱きしめた。顔を湯につけて安寿は声に出した。

 「ずっと航志朗さんと一緒にいたい……」

 心の底から吐き出したその言葉は、泡を浮かべながらごぼごぼと音を立てて消えていった。

 その一週間後、岸がスケッチ旅行から帰宅した。さっそくサロンで安寿は岸のスケッチブックを見せてもらった。渓流の絵だ。奥深い森の中に生い茂る樹木や滝の流れや奇岩が静謐に描かれていた。安寿は岸の水の流れの描写に目がくぎづけになった。絶え間なく流れて行く水はスケッチブックにとどまらずに、安寿の手からこぼれ落ちていく。安寿は胸の奥がしめつけられて、思わず岸の琥珀色の瞳を見つめた。それに気づいた岸は穏やかなまなざしで安寿の瞳を見返した。だが、急に岸は目をそらした。安寿はその岸の微細な態度に心がざわついた。

 その時、微笑みを浮かべた咲が藤で編まれたバスケットの中にたくさんの菓子を並べて緑茶と一緒に運んで来た。咲は歌うように言った。

 「日本全国からのお土産大集合ですね。安寿さまからの北海道のホワイトチョコレートクッキーに、だんなさまからの青森の南部せんべい、それから安寿さまのご友人からの京都の銘菓に、私どもからの伊勢のお菓子ですよ」

 岸に勧められた伊藤夫妻も加わって、文字通りの甘いティータイムを過ごした。

 三週間ぶりのモデルの仕事の日がやってきた。いつもより早く起きた安寿は長襦袢に着替えて、咲に濃紺の麻の着物を着付けてもらった。

 アトリエに行くと岸はまだ来ていなかった。安寿はイーゼルに立てかけられたキャンバスに見入った。本当に美しい写実絵画だと安寿は心から思った。自分がモデルになっている絵だというのに。作品はまもなく描き上がる。だが、安寿の両目だけが描かれていない。その箇所だけ虚ろに穴が開いているかのようにキャンバスの地が見える。そして、一つだけ実物との相違点がある。絵のなかの安寿(モデル)は結婚指輪をしていない。

 安寿は軽くため息をついてから花瓶に生けられた白い百合の花を手に持った。その瞬間、微かに指先が震えた。わけのわからない違和感を感じる。

 はからずもそれに気づいて安寿は愕然とした。白い百合の花は西洋絵画では特別な意味を持つ。──『純潔』の象徴だ。恐れおののいた安寿はすぐに百合の花を花瓶に戻した。

 (私は、この花を持つことができる資格を失ったんだ……)

 青ざめた安寿は固く目を閉じた。じわじわとわきあがってくる罪悪感に安寿は立ち尽くした。

 (私は大変なことをしてしまった。まだこの絵が完成していないのに……)

 アトリエに岸がやって来た。

 「おはようございます、安寿さん。朝早くから来ていただいて、ありがとうございます」

 いつものように岸は穏やかに微笑んだ。

 「おはようございます、岸先生。あの、私……」

 画家に何と言って謝罪したらいいのか、安寿はわからない。安寿は口ごもってしまった。これまでそうしてきたように、安寿はイーゼルの前に置かれた肘掛け椅子になすすべもなく座るしかなかった。

 岸はキャンバスの前に座った。すでに岸の琥珀色の瞳は鈍く陰っていた。安寿は岸に顔を向けるのがつらくなってきた。岸は画筆を握って絵に向かおうとしたが、目を閉じてこぶしを膝の上に置いた。思わず安寿は下を向いた。

 しばらく画家とモデルの間には沈黙が続いた。古時計の秒針を刻む音だけが聞こえてくる。やがて、岸が重々しく口を開いた。

 「……この絵は、これでおしまいにします」

 岸は静かに立ち上がると、そのままアトリエを出て行った。

 その一部始終を華鶴がドアの陰から見ていた。ドアを開けた岸は華鶴の脇を通ったが、ふたりは目も合わさずに無言ですれ違った。岸の背中を見送ってから、また華鶴はアトリエの中をのぞき込んだ。深々とうなだれた安寿が肘掛け椅子にぐったりとした様子で腰かけている。

 「安寿さん!」

 思わず華鶴は安寿の名前を大声で呼んだ。突然、華鶴の目の前で、安寿がアトリエの窓から外に足袋のままで飛び出して行ったのだ。そのまま安寿の姿は裏の森の中へ消えていった。

 華鶴はアトリエに入ると、イーゼルの前に立った。腰に両手を当てて華鶴は未完成の絵を見つめた。両目が描かれていないままで「おしまい」になった岸の絵を。華鶴は眉間にしわを寄せて息を吐き出した。

 「初恋って、本当にやっかいだわ……」

 そうつぶやくと華鶴は母屋へ戻って行った。

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