今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
森の小道を安寿は息を切らして走った。池のほとりにたどり着くと、肩を激しく上下させながらしゃがんで池を見つめた。曇り空を映し出してどんよりと灰色に濁っている。心なしか冷たい風が吹いてきて、池の水面がゆらゆらと小さなさざ波を立てて揺れている。航志朗と身体を重ねた時の生なましい揺らぎを思い出して、身体じゅうが熱くなる。だが、それは一瞬のことで、安寿は真っ黒な罪悪感に突き落とされた。
(私は、岸先生の大切な絵を損なってしまったんだ……)
涙は出てこない。ただ哀しいだけだ。安寿は膝を抱え込んで小さく丸まった。そして、安寿は気づいてしまった。
(私は、もう岸先生のモデルになれないのかもしれない。ということは、私は航志朗さんと離婚して、あの家を出て行かなければならないんだ……)
急に安寿は息苦しくなってきた。頭のなかが混乱してきて、どうしようもなくなる。
(もう、私は、彼と一緒にいられない)
思い詰めた表情で安寿は池の水に手を伸ばした。
その時、安寿は後ろから声をかけられた。
「安寿さん」
その冷静な声に安寿は振り返った。そこには安寿のスニーカーを手に持った華鶴が立っていた。
華鶴は白いロングタイトスカートが汚れるのにも構わずに安寿の隣に座った。
低い声で華鶴が訊いた。
「大丈夫?」
顔をこわばらせて安寿は謝った。
「華鶴さん、すいませんでした。あの、私……」
どうしても言葉が続かない。黙り込んで安寿はうつむいた。
池の灰色の水面を見ながら、華鶴は静かに尋ねた。
「ねえ、安寿さん。あなた、航志朗さんを本気で好きになってしまったの?」
視線を落としただけで、安寿は何も答えられなかった。
「やっぱりそうなのね。もしかして、安寿さんにとって、……初めての恋?」
思わず安寿は顔を赤らめた。
目を閉じて華鶴は微笑んだ。
「初恋はつらいものよね。ただ相手のことがどうしようもなく好きなだけ。何も考えられない。そして、自分自身を守れない」
顔を上げて安寿は華鶴の横顔を見た。華鶴の顔の輪郭が薄くなっているように感じる。スフマート技法で描かれた絵画のように。安寿は落ち着かない気分になってきた。胸の鼓動が波打って、それは安寿の身体を震わせる。
「安寿さん、聞いてくださらない? 私の初恋の話を。私の初恋は高校三年生の時だったわ。相手は清美高の同級生よ。彼はとてつもない絵を描くひとだった。それに、自由奔放で、ハンサムで」
そう言うと華鶴は軽く微笑んだ。
「そして、卒業まぎわに、私、妊娠したの。……彼の子を」
安寿が驚愕して華鶴を見た。安寿の脳裏に航志朗が苦しんでいた姿が浮かぶ。
「私は清美大に進学することが決まっていたけれど、やめてパリに行ったの。そう、彼の子を捨てて、ここから逃げた」
限りなく透き通っているようで、同時にどす黒く濁っているようにも見える瞳で、華鶴は安寿を見つめた。動揺しながらも安寿は華鶴を見返した。どちらにしても華鶴の瞳の色は空虚そのものだ。
「彼とはそれっきりよ。初恋なんて、そんなものよね……」
華鶴は立ち上がってタイトスカートについた土を払った。そして、安寿の手を取った。
「安寿さん、アトリエに戻りましょう。引き続き、あの絵のモデルをお願いね」
思わず安寿は華鶴の手を握りしめた。華鶴は安寿に向かっていつもの美しい笑顔で微笑んだ。
森の小道を黙って安寿と華鶴は手をつないで歩いた。華鶴のきれいな手は氷のように冷たい。航志朗の手よりもずっとだ。安寿は着物の裾の下に見える裸足で履いた不釣り合いなスニーカーを見ながら思った。
(華鶴さんも心が冷えきっているのかもしれない……)
アトリエに続くウッドデッキに着くと、安寿の手を離して華鶴は言った。
「安寿さん、アトリエで待っていらして。画家を呼んでくるから」
戸惑いを感じながらも安寿はうなずいた。
サロンのソファに座って、岸は自分で淹れたハーブティーを飲んでいた。そこへ華鶴がやって来て、岸の後ろに立って静かに言った。
「宗嗣さん、一刻も早くあの絵を完成させてくださいね」
岸は無言のままだ。華鶴は音を出してため息をついた。
「ムッシュ・デュボアから催促が来ているの。『あのモデルの絵は、まだ完成しないのか』って。まさか未完成のままで、あのお方にお渡しするとおっしゃるんじゃないでしょうね?」
岸は華鶴と目を合わさずに下を向いて言った。
「あの絵はもう描けません。その代わりに新しい絵に取りかかります。そのように、ムッシュ・デュボアに伝えてください」
突然、華鶴は声を荒げた。
「いいえ、だめよ! とにかくあの絵を完成させて、今すぐに!」
隣の食事室で昼食の配膳をしていた咲が縮みあがった。
長い沈黙の後、岸が小声で言った。
「……わかりました、華鶴さん。今日中にあの絵を仕上げます」
「そう。彼女、アトリエであなたを待っているわよ」
苛立った足取りで華鶴はサロンを出て行った。岸は自分の固く握りしめた右手をじっと見つめた。
(私は、岸先生の大切な絵を損なってしまったんだ……)
涙は出てこない。ただ哀しいだけだ。安寿は膝を抱え込んで小さく丸まった。そして、安寿は気づいてしまった。
(私は、もう岸先生のモデルになれないのかもしれない。ということは、私は航志朗さんと離婚して、あの家を出て行かなければならないんだ……)
急に安寿は息苦しくなってきた。頭のなかが混乱してきて、どうしようもなくなる。
(もう、私は、彼と一緒にいられない)
思い詰めた表情で安寿は池の水に手を伸ばした。
その時、安寿は後ろから声をかけられた。
「安寿さん」
その冷静な声に安寿は振り返った。そこには安寿のスニーカーを手に持った華鶴が立っていた。
華鶴は白いロングタイトスカートが汚れるのにも構わずに安寿の隣に座った。
低い声で華鶴が訊いた。
「大丈夫?」
顔をこわばらせて安寿は謝った。
「華鶴さん、すいませんでした。あの、私……」
どうしても言葉が続かない。黙り込んで安寿はうつむいた。
池の灰色の水面を見ながら、華鶴は静かに尋ねた。
「ねえ、安寿さん。あなた、航志朗さんを本気で好きになってしまったの?」
視線を落としただけで、安寿は何も答えられなかった。
「やっぱりそうなのね。もしかして、安寿さんにとって、……初めての恋?」
思わず安寿は顔を赤らめた。
目を閉じて華鶴は微笑んだ。
「初恋はつらいものよね。ただ相手のことがどうしようもなく好きなだけ。何も考えられない。そして、自分自身を守れない」
顔を上げて安寿は華鶴の横顔を見た。華鶴の顔の輪郭が薄くなっているように感じる。スフマート技法で描かれた絵画のように。安寿は落ち着かない気分になってきた。胸の鼓動が波打って、それは安寿の身体を震わせる。
「安寿さん、聞いてくださらない? 私の初恋の話を。私の初恋は高校三年生の時だったわ。相手は清美高の同級生よ。彼はとてつもない絵を描くひとだった。それに、自由奔放で、ハンサムで」
そう言うと華鶴は軽く微笑んだ。
「そして、卒業まぎわに、私、妊娠したの。……彼の子を」
安寿が驚愕して華鶴を見た。安寿の脳裏に航志朗が苦しんでいた姿が浮かぶ。
「私は清美大に進学することが決まっていたけれど、やめてパリに行ったの。そう、彼の子を捨てて、ここから逃げた」
限りなく透き通っているようで、同時にどす黒く濁っているようにも見える瞳で、華鶴は安寿を見つめた。動揺しながらも安寿は華鶴を見返した。どちらにしても華鶴の瞳の色は空虚そのものだ。
「彼とはそれっきりよ。初恋なんて、そんなものよね……」
華鶴は立ち上がってタイトスカートについた土を払った。そして、安寿の手を取った。
「安寿さん、アトリエに戻りましょう。引き続き、あの絵のモデルをお願いね」
思わず安寿は華鶴の手を握りしめた。華鶴は安寿に向かっていつもの美しい笑顔で微笑んだ。
森の小道を黙って安寿と華鶴は手をつないで歩いた。華鶴のきれいな手は氷のように冷たい。航志朗の手よりもずっとだ。安寿は着物の裾の下に見える裸足で履いた不釣り合いなスニーカーを見ながら思った。
(華鶴さんも心が冷えきっているのかもしれない……)
アトリエに続くウッドデッキに着くと、安寿の手を離して華鶴は言った。
「安寿さん、アトリエで待っていらして。画家を呼んでくるから」
戸惑いを感じながらも安寿はうなずいた。
サロンのソファに座って、岸は自分で淹れたハーブティーを飲んでいた。そこへ華鶴がやって来て、岸の後ろに立って静かに言った。
「宗嗣さん、一刻も早くあの絵を完成させてくださいね」
岸は無言のままだ。華鶴は音を出してため息をついた。
「ムッシュ・デュボアから催促が来ているの。『あのモデルの絵は、まだ完成しないのか』って。まさか未完成のままで、あのお方にお渡しするとおっしゃるんじゃないでしょうね?」
岸は華鶴と目を合わさずに下を向いて言った。
「あの絵はもう描けません。その代わりに新しい絵に取りかかります。そのように、ムッシュ・デュボアに伝えてください」
突然、華鶴は声を荒げた。
「いいえ、だめよ! とにかくあの絵を完成させて、今すぐに!」
隣の食事室で昼食の配膳をしていた咲が縮みあがった。
長い沈黙の後、岸が小声で言った。
「……わかりました、華鶴さん。今日中にあの絵を仕上げます」
「そう。彼女、アトリエであなたを待っているわよ」
苛立った足取りで華鶴はサロンを出て行った。岸は自分の固く握りしめた右手をじっと見つめた。