今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第2節

 安寿は華鶴が運転するカーマインレッドの外車の助手席に座っていた。車内には甘くてうっとりするようなムスク系の香りが漂う。その香りにも刺激されて安寿の胸は高鳴り始めた。トランジットの短い時間だが、もうすぐ航志朗に会える。華鶴はかなりのスピードを出して羽田空港に向けて車を走らせていた。華鶴のパリ仕込みのドライビングテクニックは、控えめに言ってもかなり手荒い。初めは恐怖で足が震えたが、今ではもう慣れた。安寿自身は車の運転免許を取得しようとはまったく思わない。自転車で充分だ。

 羽田空港第三ターミナルの一般車降り場に到着した。大きなアタッシェケースを抱きかかえて安寿は車を降りた。

 「安寿さん、よろしくね」

 華鶴はドライビンググローブをした片手を優雅に上げて、すぐに車を出した。華鶴の車が見えなくなるまで見送ってからターミナルに入ると、安寿は二階の到着ロビーに向かった。胸の鼓動が早まるのを自覚した。腕時計を見ると、午後五時すぎだ。航志朗が乗った飛行機は午後五時半に到着する予定だ。その後、航志朗は午後十時五十五分発の飛行機に乗り換えて、パリ経由でニースに向かう。

 (短い時間だけど、もうすぐ彼に会える……)

 ふと航志朗が食べたいと言っていた北海道土産の菓子折りのことを思い出したが、あの箱は航志朗のマンションに置いたままだ。

 到着ロビーに着くと、安寿はまずトイレに行って身支度を確認した。ミラーを見ると自分が顔を紅潮させているのがわかって恥ずかしくなる。アタッシェケースを抱えながら安寿は薄づきのリップクリームをなんとか塗り直して髪をとかした。

 トイレから出ると椅子に座って、安寿は到着出口を眺めた。スーツケースを引いたたくさんの人びとが次から次へと現れる。その人びとの波は、まるで様ざまな色彩をした川の流れのように感じる。

 安寿はもの思いにふけった。

 (皆、どこからやって来て、どこへ行くのだろう……)

 午後五時半が過ぎた。到着便の電光掲示板に表示された航志朗が搭乗している便名の右横に「ARRIVING(到着)」の表示が出た。定刻に無事着陸したのだ。ほっと安寿は胸をなでおろした。はやる心を落ち着かせるために深呼吸してから立ち上がり、到着出口の前に立った。電光掲示板の表示は次々に変わり、「CUSTOMS(通関中)」になった。もうすぐ航志朗に会える。ハングル文字が印刷された免税店の大きなショッピングバッグをいくつも手に持った旅客たちが大勢出て来た。女性が多い。安寿は目を凝らして航志朗の姿を探した。

 混雑する人びとの中に、やっと安寿は航志朗の姿を見つけた。白いシャツを着た航志朗は見慣れたスーツケースを転がしながら、到着ロビーを見回している。早鐘を打つ胸を振りきり、大声で安寿は航志朗の名前を呼んだ。

 「航志朗さん!」

 その声に立ち止まった航志朗は安寿に気づいた。信じられないといった面持ちで航志朗は目を大きく見張った。安寿は走り出して、航志朗の目の前に立った。そして、顔を真っ赤にさせながら航志朗を見上げて言った。

 「航志朗さん、おかえりなさい!」

 ぼんやりとした表情で航志朗はつぶやいた。

 「ただいま……」

 急に航志朗は我に返って叫んだ。

 「安寿!」

 いきなり航志朗はその場で安寿をきつく抱きしめた。通り過ぎて行く中高年女性たちが鼻の下を伸ばしてふたりを見た。安寿は恥ずかしくて仕方がないが、もう航志朗の腕の中から抜け出せない。航志朗と再会できた喜びが身体じゅうを満たしていく。安寿はアタッシェケースを持っていない右手で航志朗の身体にしがみついた。

 「安寿、行こうか」

 すぐに航志朗は安寿の手を強く引っぱってエレベーターに乗り込み、三階の出発ロビーに行った。ここで乗り換えの飛行機が出発する時間まで待つのだろうと安寿は思った。だが、航志朗は待合スペースの前を通り過ぎた。安寿が怪訝に思っていると、北側の保安検査場の奥にあるトランジットホテルのゲート前に来た。

 (ホ、ホテル! こんなところにあるの……)

 あぜんとして安寿は立ち止まった。

 笑みを浮かべた航志朗が振り返って言った。

 「安寿、ここに入ろう。外じゃ何もできないだろ」

 安寿は胸がどきどきしてきた。

 (「何もできない」って、ホテルに行って何をするの……)

 赤くなって安寿はうつむいた。

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