今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 ガラス張りの通路を通ってたどり着いたホテルのフロントで、航志朗がチェックインの手続きを済ませた。落ち着かない様子で安寿は窓の外に目をやった。川が見える。たぶん多摩川だ。カードキーを手に持った航志朗にうながされてエレベーターで最上階に上がった。薄暗く細長い廊下を奥へと進む。

 ふたりはホテルの部屋の中に入った。コンパクトな部屋だが、ダブルベッドが置かれている。安寿の胸の鼓動が早くなった。

 「シャワーを浴びてくる」と言って、航志朗はバスルームに行った。ため息をついた安寿はアタッシェケースをテーブルの上に置くと、カーテンを開けて窓の外を見た。滑走路と遠目に管制塔が見える。

 突然、視界に飛行機が着陸してきたが、まったく現実味がない。ただぼんやりと安寿はその光景を眺めた。

 バスルームから航志朗が出て来た。航志朗は腰にバスタオルを巻いているだけだ。恥ずかしくなって、安寿は航志朗に背を向けて視線を窓の外に戻した。航志朗は備え付けのミネラルウォーターを小型冷蔵庫から取り出してキャップを開けた。ごくごくと喉を鳴らす音が安寿の熱を帯びた耳に入ってきた。

 爽やかな石鹸の香りが近づいて来る。航志朗は安寿を後ろから抱きしめて、安寿の耳元に甘い声でささやいた。

 「安寿、思いがけず君に会えて嬉しいよ」

 安寿が航志朗に向かって振り返った瞬間に航志朗は安寿の顎をつかんで唇を重ねた。安寿は目を閉じて航志朗の肩に腕を回した。ふたりはきつく抱き合って互いの唇を激しく求め合った。航志朗はキスしながら安寿の胸に触れて、ワンピースのボタンを外し始めた。安寿は目を開けて航志朗の手元を見ると、申しわけなさそうに言った。

 「航志朗さん。ここでは、ちょっと……」

 航志朗は安寿の首筋に何回も口づけながら言った。

 「ん、……だめか?」

 安寿は岸の作品が収められたアタッシェケースを航志朗の肩ごしに見つめた。

 「あの絵のそばでは……」

 「そうか、わかった」とは言いつつも、航志朗は安寿をベッドに押し倒して覆いかぶさりキスし続けた。服の上から身体じゅうを触られる。もう安寿は頭のなかがとろけてしまい、何も考えられなくなってきた。

 ふと航志朗がそれに気づいて顔を上げると安寿に尋ねた。

 「安寿、何か香水でもつけているのか? 今日の君はいつもと違うセクシーな香りがする」

 すぐに思い当たって安寿は答えた。

 「華鶴さんのお車の香りですよ。ここまで送っていただいたので」

 「……そうか」

 一瞬、航志朗は顔をしかめた。

 「俺は、ありのままの君の匂いが好きだ。だから、何もつけなくていい。今もこれからもずっと」

 「これからもずっと」という言葉に安寿は胸の奥が苦しくなる。とうとう離婚する時が来てしまったと思ったのは、つい先週のことだ。思わず航志朗にしがみついて、安寿は小声で恥ずかしそうに言った。

 「私も航志朗さんの匂いが好きです」

 安寿の「好きです」という言葉に胸をどきっとさせてから、航志朗は尋ねた。

 「俺の匂いって、どんな匂いだ?」

 微笑みながら安寿は答えた。

 「なんともいえない、航志朗さんのいい匂いです」

 そう言うと安寿は航志朗にそっとキスした。安寿への愛おしさにたまらなくなった航志朗は安寿を抱きしめてまた唇を重ねた。半裸の航志朗に抱きしめられて身体の奥がうずくが、安寿はどうしてもその先に進めなかった。

 しばらくそうしていると、いきなり航志朗が大きなくしゃみをした。ふたりは顔を見合わせて苦笑いした。航志朗はスーツケースから黒いシャツとライトベージュのコットンパンツを取り出して着替えた。時刻は午後八時を過ぎている。「お腹空いたな」とつぶやいて、航志朗はスマートフォンを使ってオンラインでルームサービスを頼んだ。

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