今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 ほどなくしてホテルの客室係が二人分のクラブハウスサンドイッチとカットフルーツの盛り合わせ、デカフェと紅茶をワゴンにのせて運んで来た。

 夜の空港は明るくライトアップされていて、数機の飛行機が移動しているのが見える。食事が終わると、安寿は遠慮がちに言った。

 「航志朗さん、完成した岸先生の作品を見ていただけませんか」

 航志朗はうなずくと、手を洗ってからアタッシェケースを開けた。そして、中に入っていた新品の白手袋をはめて、作品を慎重に取り出した。安寿は隣で航志朗を静かに見つめていた。

 父の作品を見ると航志朗は予想をはるかに超えた大きな衝撃を受けた。思いもよらない安寿の写実的な人物画に対峙して、言葉にならない恐怖に襲われる。

 (安寿が目を閉じている……)

 全神経を集中して航志朗は呼吸を整えた。絵のなかに確かに存在する隠された意図のからまりがだんだんほぐれてくる。航志朗はこの絵のすべてを理解すると安堵感を覚えた。何も言わずに航志朗は岸の作品を丁重にアタッシェケースに戻した。

 「安寿……」

 航志朗はかすれた声で安寿の名前を呼ぶと、しっかりと安寿を腕の中に抱きしめて言った。

 「この絵のなかの君は、自分で自分自身を守っている。……目を閉じて」

 安寿は航志朗の顔を見上げた。

 ふたりはしっかりと見つめ合った。

 「安寿、この絵はこれでよかったんだ。それに、俺たちは何も間違っていない」

 その力強い言葉に安寿は安心感に包まれた。安寿は目に涙を浮かべながら航志朗を見つめた。涙で潤んだ安寿の目を見て急に不安に駆られた航志朗は、安寿の耳元でうめくようにささやいた。

 「もしかして、君は後悔しているのか」

 安寿は大きく首を振った。

 「いいえ。私は嬉しいんです。今、航志朗さんと一緒にいられて」

 安寿を愛おしそうに見つめて、航志朗はきつく安寿を抱きしめた。安寿は航志朗の胸に顔を押しつけて思った。

 (もうすぐ、また離れることになるけれど……)

 安寿は航志朗の背中に回した腕の力を強めた。

 午後十時を過ぎた。すでに空港に戻らなければならない時間だ。航志朗は手早く準備してから言った。

 「安寿、今夜はここに泊まるか? 一人きりになってしまうけど」

 安寿は首を振って淡々と言った。

 「航志朗さんを見送った後、お屋敷に戻ります。明日は土曜日なので」

 安寿のモデルとしての真摯な心持ちに航志朗は一抹の不安を覚えた。

 「わかった。もう夜遅いから、ここからタクシーを使って帰れよ。いいな、安寿。それから、これを渡しておく。自由に使って構わないから」

 航志朗は安寿にクレジットカードを渡そうとした。プラチナのカードには「ANJU KISHI」と名前が入っている。当然、安寿は手を出そうとしない。航志朗は強引に安寿の手にクレジットカードを握らせた。仕方なく安寿は礼を言って、大切そうに財布にしまった。

 ホテルをチェックアウトして、ふたりは出発ロビーに戻った。午後十時を過ぎて人影はまばらだ。また航志朗と別れる時間がやって来た。あっという間の再会のひとときだった。保安検査場に入る前に、航志朗は今にも泣き出しそうな安寿の頬に手を触れて微笑みながら言った。

 「安寿、あさっての日曜日の午後六時半に羽田空(ここ)港に戻って来る。マンションで待っていてくれないか。一緒に日曜の夜を過ごそう」

 急に笑顔になって安寿は答えた。

 「はい。夕食を用意しておきますね」

 「うん。楽しみにしているよ」

 航志朗は安寿の頬にキスして心配そうに言った。

 「安寿、気をつけて帰れよ。必ずタクシーを使えよ」

 安寿はうなずいてから言った。

 「航志朗さん、お気をつけて。日曜日にマンションで待っています」

 「安寿、いってくる」

 「いってらっしゃい、航志朗さん……」

 笑顔で手を振りながら、アタッシェケースを持った航志朗は保安検査場に入って行った。安寿はまた一人になった。だが、安寿の心は航志朗の温もりで満たされていた。

 安寿はタクシー乗り場に向かいながら考え始めた。

 (あさっての夕食、何にしようかな……)

 ふと安寿はワンピースの袖の匂いをかいだ。もう華鶴の車の匂いはしなかった。

 (航志朗さんの匂いがする……)

 うつむいて安寿はにっこりと微笑んだ。

 












 



















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