今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
午前十時にジャン=シトー・ドゥ・デュボアの大邸宅に到着した。航志朗は今日の午後七時半発のフライトで東京に戻る。前回と比べると六時間ほどの短い滞在予定だ。
エントランスには見覚えのある若い女が待ち構えていた。彼女は大きなお腹を抱えている。ロマンの世話をしていたナニーだ。先に車を降りたノアを愛くるしい笑顔で出迎えた。
「ノア、おかえりなさい!」
ノアは彼女の頬にキスしてから言った。
「ホア、ただいま」
大きなお腹に手をのせて、ホアは恥ずかしそうに航志朗にあいさつした。
「ムッシュ・キシ、いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
航志朗は優しく微笑みながら言った。
「ありがとう。私のことは『コーシ』と呼んでくださいね。あなたの夫と同じように」
真っ赤になったホアは小さな声で言った。
「わかりました。私のことは『ホア』と呼んでください。コーシ、……私のお兄さま」
ノアはホアの肩をそっと抱いた。
大邸宅の中に入り、再びデュボアの珠玉のコレクションが飾られた回廊を通る。相変わらず美術館のような白い城だ。
ノアが豪華なシャンデリアが飾られたサロンに航志朗を案内した。アタッシェケースと日本の免税店のショッピングバッグを持った航志朗は辺りを見回した。その視線に気づいたノアが声をかけた。
「コーシ、ロマンをお探しですか?」
「ええ。実は、彼に日本の土産を渡したいのですが」
航志朗はショッピングバッグをノアに示した。
「それはありがとうございます。ロマンが喜びます。コーシ、大変申しわけないのですが、彼は、今、パリにいるんです。彼の実の姉のところに」
「そうですか。では、彼にこれを渡してください。カラーブロックの日本限定セットなんです。たまたま空港の免税店で見かけたので」
穏やかな笑みを浮かべてノアはうなずいた。
サロンのソファに座った航志朗は緊張した面持ちでアタッシェケースを膝にのせて抱えていた。あの極上の美意識を持った顧客の反応がまったく予想できない。ノアがコーヒーを運んで来た。航志朗は礼を言ってアタッシェケースを隣に置いてから口をつけた。
奥の重厚なドアが開いた。白い人影が目に入る。デュボアだ。安寿の絵をめぐって、顧客との駆け引きの幕が上がった。航志朗はアタッシェケースに左手を置いて誓った。
(安寿。……俺は、君を守りぬく)
「ボンジュール、コウシロウ。久しぶりだね」
真っ白なシルクのドレスシャツをまとったデュボアが、ゆっくりとした足取りでサロンに入って来た。即座に航志朗は立ち上がった。ノアがデュボアの斜め前に立って肩を心持ち下げた。デュボアはノアの肩に手を置いて、その足を一歩一歩重たそうに前へと進めた。その様子を見て航志朗はわずかに顔をしかめた。
デュボアは航志朗の前に気だるそうに座って荒く息をついた。デュボアが目配せするとノアは航志朗に会釈して静かにサロンを出て行った。
さっそくデュボアと二人きりになった。航志朗は自分の手のひらが汗ばんできたのをいやがおうにも感じる。
「ムッシュ・デュボア、お久しぶりです。このたびは納品がことのほか遅くなりまして、心よりおわび申しあげます。大変申しわけございません」
身体を折って航志朗は深々とデュボアに頭を下げた。
心から愉しそうに航志朗を見つめてデュボアが言った。
「その謝罪の作法は、君のお国の『ブシドー』かな。私の一存で、君は『ハラキリ』でもしそうな雰囲気だね」
そう言うとデュボアは声に出して優雅に笑った。
「まあ、いいだろう。二十年間、待ちに待ったムネツグの人物画だ。あまりの幸福に身も心も震えるよ」
航志朗はさっそくアタッシェケースを開けて、丁重に岸の作品を取り出した。身体じゅうが震えているのを自覚する。航志朗は生身の安寿が自分の背後にいるように感じた。
(この男から彼女を守ることができるのは、俺しかいない)
航志朗はデュボアに目を閉じた安寿の絵を慎重に手渡した。
しばらくの間、黙ってデュボアは絵を見つめていた。ひそかに航志朗はデュボアの表情をうかがったが、まったく何を考えているのかわからない。肯定的なのか否定的なのか。好感を抱いたのか嫌悪感を抱いたのか。
やがて、デュボアがつぶやいた。
「……なるほど」
航志朗はデュボアの瞳を見つめた。その灰色がかった碧眼には、午前中の陽光を浴びてわずかにくすんだ黄色も混じっている。
デュボアは深くため息をついた。
「とどのつまり、私はこの少女の魂を手に入れる機会を与えられなかったということだね。そうだろう、コウシロウ?」
デュボアは航志朗の左手の薬指の結婚指輪に視線を送った。背筋をぞっとさせて航志朗は戦慄した。デュボアは航志朗を凝視して乾いた声で言った。
「君が彼女を手に入れたからだね。私に先んじて」
航志朗は何も答えられない。
「ああ、そうだ。私は、今、君に贈るべき言葉があるね。『コウシロウ、結婚おめでとう』とね」
なんとか力を振り絞って航志朗は礼を言った。
「……ありがとうございます、ムッシュ・デュボア」
両手を上げてデュボアは天を仰いだ。
「私にとって彼女は翼を広げて飛び立ってしまった天使そのものだ。もはや永遠に手が届かない」
そう言うと、デュボアは絵のなかの白い百合を持った安寿の手に触れた。思わず航志朗は眉間にしわを寄せた。
「しかし、なんと美しい絵だ。長きに渡って穢れた身体と心が清められるよ。ムネツグの写実画の才能は本物だ。彼女はこのエレガントなキモノの下にどんな素肌を隠しているんだろうね」
デュボアは鋭いまなざしで航志朗を一瞥した。
「また彼女の絵をカズに注文するとしよう。もちろん何年でも待とう。だが、二十年はもう勘弁してもらいたいがね」
上機嫌でデュボアは笑みを浮かべた。
顔に暗い陰を落とした航志朗は無言のままだ。
(通常のビジネスだったら、ここは『誠にありがとうございます』と応えるのが道理だ。だが、俺は口が裂けても言えるものか!)
わきあがってくる怒りを無理矢理抑えつけて航志朗は両手のこぶしを握りしめた。
「コウシロウ、テラスで一緒にブランチはいかがかな? 今日も好天だ。さぞかし気持ちがいいだろう」
デュボアが窓の外に広がる青い空を遠い目で見ながら言った。
「はい。お心遣いをいただきまして、ありがとうございます」
今度は礼を言うことができた航志朗だった。
エントランスには見覚えのある若い女が待ち構えていた。彼女は大きなお腹を抱えている。ロマンの世話をしていたナニーだ。先に車を降りたノアを愛くるしい笑顔で出迎えた。
「ノア、おかえりなさい!」
ノアは彼女の頬にキスしてから言った。
「ホア、ただいま」
大きなお腹に手をのせて、ホアは恥ずかしそうに航志朗にあいさつした。
「ムッシュ・キシ、いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
航志朗は優しく微笑みながら言った。
「ありがとう。私のことは『コーシ』と呼んでくださいね。あなたの夫と同じように」
真っ赤になったホアは小さな声で言った。
「わかりました。私のことは『ホア』と呼んでください。コーシ、……私のお兄さま」
ノアはホアの肩をそっと抱いた。
大邸宅の中に入り、再びデュボアの珠玉のコレクションが飾られた回廊を通る。相変わらず美術館のような白い城だ。
ノアが豪華なシャンデリアが飾られたサロンに航志朗を案内した。アタッシェケースと日本の免税店のショッピングバッグを持った航志朗は辺りを見回した。その視線に気づいたノアが声をかけた。
「コーシ、ロマンをお探しですか?」
「ええ。実は、彼に日本の土産を渡したいのですが」
航志朗はショッピングバッグをノアに示した。
「それはありがとうございます。ロマンが喜びます。コーシ、大変申しわけないのですが、彼は、今、パリにいるんです。彼の実の姉のところに」
「そうですか。では、彼にこれを渡してください。カラーブロックの日本限定セットなんです。たまたま空港の免税店で見かけたので」
穏やかな笑みを浮かべてノアはうなずいた。
サロンのソファに座った航志朗は緊張した面持ちでアタッシェケースを膝にのせて抱えていた。あの極上の美意識を持った顧客の反応がまったく予想できない。ノアがコーヒーを運んで来た。航志朗は礼を言ってアタッシェケースを隣に置いてから口をつけた。
奥の重厚なドアが開いた。白い人影が目に入る。デュボアだ。安寿の絵をめぐって、顧客との駆け引きの幕が上がった。航志朗はアタッシェケースに左手を置いて誓った。
(安寿。……俺は、君を守りぬく)
「ボンジュール、コウシロウ。久しぶりだね」
真っ白なシルクのドレスシャツをまとったデュボアが、ゆっくりとした足取りでサロンに入って来た。即座に航志朗は立ち上がった。ノアがデュボアの斜め前に立って肩を心持ち下げた。デュボアはノアの肩に手を置いて、その足を一歩一歩重たそうに前へと進めた。その様子を見て航志朗はわずかに顔をしかめた。
デュボアは航志朗の前に気だるそうに座って荒く息をついた。デュボアが目配せするとノアは航志朗に会釈して静かにサロンを出て行った。
さっそくデュボアと二人きりになった。航志朗は自分の手のひらが汗ばんできたのをいやがおうにも感じる。
「ムッシュ・デュボア、お久しぶりです。このたびは納品がことのほか遅くなりまして、心よりおわび申しあげます。大変申しわけございません」
身体を折って航志朗は深々とデュボアに頭を下げた。
心から愉しそうに航志朗を見つめてデュボアが言った。
「その謝罪の作法は、君のお国の『ブシドー』かな。私の一存で、君は『ハラキリ』でもしそうな雰囲気だね」
そう言うとデュボアは声に出して優雅に笑った。
「まあ、いいだろう。二十年間、待ちに待ったムネツグの人物画だ。あまりの幸福に身も心も震えるよ」
航志朗はさっそくアタッシェケースを開けて、丁重に岸の作品を取り出した。身体じゅうが震えているのを自覚する。航志朗は生身の安寿が自分の背後にいるように感じた。
(この男から彼女を守ることができるのは、俺しかいない)
航志朗はデュボアに目を閉じた安寿の絵を慎重に手渡した。
しばらくの間、黙ってデュボアは絵を見つめていた。ひそかに航志朗はデュボアの表情をうかがったが、まったく何を考えているのかわからない。肯定的なのか否定的なのか。好感を抱いたのか嫌悪感を抱いたのか。
やがて、デュボアがつぶやいた。
「……なるほど」
航志朗はデュボアの瞳を見つめた。その灰色がかった碧眼には、午前中の陽光を浴びてわずかにくすんだ黄色も混じっている。
デュボアは深くため息をついた。
「とどのつまり、私はこの少女の魂を手に入れる機会を与えられなかったということだね。そうだろう、コウシロウ?」
デュボアは航志朗の左手の薬指の結婚指輪に視線を送った。背筋をぞっとさせて航志朗は戦慄した。デュボアは航志朗を凝視して乾いた声で言った。
「君が彼女を手に入れたからだね。私に先んじて」
航志朗は何も答えられない。
「ああ、そうだ。私は、今、君に贈るべき言葉があるね。『コウシロウ、結婚おめでとう』とね」
なんとか力を振り絞って航志朗は礼を言った。
「……ありがとうございます、ムッシュ・デュボア」
両手を上げてデュボアは天を仰いだ。
「私にとって彼女は翼を広げて飛び立ってしまった天使そのものだ。もはや永遠に手が届かない」
そう言うと、デュボアは絵のなかの白い百合を持った安寿の手に触れた。思わず航志朗は眉間にしわを寄せた。
「しかし、なんと美しい絵だ。長きに渡って穢れた身体と心が清められるよ。ムネツグの写実画の才能は本物だ。彼女はこのエレガントなキモノの下にどんな素肌を隠しているんだろうね」
デュボアは鋭いまなざしで航志朗を一瞥した。
「また彼女の絵をカズに注文するとしよう。もちろん何年でも待とう。だが、二十年はもう勘弁してもらいたいがね」
上機嫌でデュボアは笑みを浮かべた。
顔に暗い陰を落とした航志朗は無言のままだ。
(通常のビジネスだったら、ここは『誠にありがとうございます』と応えるのが道理だ。だが、俺は口が裂けても言えるものか!)
わきあがってくる怒りを無理矢理抑えつけて航志朗は両手のこぶしを握りしめた。
「コウシロウ、テラスで一緒にブランチはいかがかな? 今日も好天だ。さぞかし気持ちがいいだろう」
デュボアが窓の外に広がる青い空を遠い目で見ながら言った。
「はい。お心遣いをいただきまして、ありがとうございます」
今度は礼を言うことができた航志朗だった。