今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
テラスを後にした航志朗は薄暗い階段を一段一段登って行った。激しい胸の鼓動が耳の奥に響く。
最上階にたどり着いた。真っ暗な長い廊下を一歩一歩奥へ進む。まるで周りの時間が過去へと遡っていくようだ。やがて、航志朗は一番奥の部屋の前に立った。鍵と同じ真鍮製のドアノブに目を落とした。一度、航志朗は深呼吸をした。そして、鍵穴に鍵を差し込んで回した。鍵が外れる手ごたえを感じるとともに、低い金属音が廊下に鳴り響いた。
ゆっくりとドアノブを回して航志朗は部屋の中に入った。まず、古い漆喰の匂いが鼻についた。部屋は真っ暗で何も見えない。航志朗は窓際に行き、重厚なグレーのジャガード織りのカーテンを開けた。目の前に蒼く光る地中海が見えて、航志朗は少しだけ安堵した。
振り返ると航志朗は見つけた。広大な部屋の奥に置かれた豪奢な白いソファの前に、一点の油彩画が壁に掛けられている。航志朗は慎重に近づいて行った。こつこつと航志朗の黒い革靴の音が部屋じゅうに反響する。
航志朗はソファの前で立ちすくんだ。思わず頭のなかが真っ白になった。いや、真っ黒になったというべきかもしれない。呆然として航志朗はつぶやいた。
「あ、安寿……。どうして、ここに……」
その絵は、若い女の裸体画だった。長い艶やかな黒髪でその白い裸体を隠してはいるが、あるべき場所に官能的な陰影が描かれている。彼女はまっすぐにこちらを見つめている。その漆黒の瞳で。切実に彼女が何かを求めているのがわかる。すぐに何かを差し出さないと彼女は燃え尽きてしまいそうだ。そして、彼女は右足を突き出して誘っているようにも見える。
(本当に、あの父が描いたのか……)
だが、この作品は疑いようもなく岸が描いた絵だ。何よりの証拠に彼女は見覚えのある椅子に座っている。岸のアトリエに置いてある真紅のベルベットが張ってあるあの肘掛け椅子だ。あまりの衝撃に航志朗は目がかすんできて、あわてて両目を手でこすった。
そして、航志朗は気づいた。
(彼女は、……安寿じゃない)
どう見ても、絵のなかの女は安寿よりも心なしか豊かな胸をしている。
航志朗は声に出して彼女に問いかけた。
「あなたは、……誰なんだ?」
全身の力が抜けて航志朗はソファに座り込んだ。見てはいけないものを見てしまった後悔の念が押し寄せてくるが、もう遅い。それに、どうしても彼女の視線から目が離せない。
突然、航志朗は彼女の背後に真っ白な雪が降ってきたように見えた。
航志朗の脳裏に子どもの頃の微かな記憶がだんだんとよみがえってきた。
(俺は、彼女に会ったことがある。ずっと前に。……そう、十三歳の時だ)
その日は、東京では珍しく大雪警報が発令されていた。航志朗が通っていた私立中学では電車通学の生徒が多いので、午後の授業が休止になった。すでに電車は遅延し、やっと自宅の最寄り駅に到着した航志朗はため息をついた。道路に厚く雪が降り積もっている。無理やり自転車に乗ったが、車輪が雪に取られて前へ進めない。あきらめて航志朗は自転車を転がして帰途についた。黒い詰襟の制服の足元がじわじわと冷たく濡れていき、身体が底冷えして震えだした。
ずっと雪は降り続いている。長い時間をかけてやっと岸家にたどり着くと、門の前に見知らぬ女が立っていた。ベージュのロングコートを着ていて、長い黒髪をたらしている。彼女は傘をさしていなかった。思わず航志朗はその女に自分の黒い傘を傾けた。
女は航志朗に微笑みかけて言った。
「ありがとう。もしかして、あなたが、……航志朗さん?」
それは、優しく透き通った声音だった。呆然として航志朗は返事ができなかった。そして、なんて美しいひとなんだろうと航志朗は胸を詰まらせながら思った。彼女の背後に舞う雪がまるで白い翼のように見えた。
(天使みたいなひとだ……)
女は航志朗の傘をそっと押し返して言った。
「どうか風邪をひかないでね。あなたはとても大切なひとなんだから」
彼女は白い手を伸ばして航志朗の両頬に手を置いた。とても温かい手だった。だが、頼りなげで今にも消えてしまいそうだった。思わず航志朗は彼女を抱きしめたいと思った。それは、生まれて初めての感情だった。
「あ、あの、またお会いできますか?」
何も答えずに彼女は微笑んだ。なんだかとても哀しげな瞳をしていた。航志朗は胸の奥が締めつけられた。
そして、彼女は雪の降るなかを、航志朗の目の前から静かに去って行った。
『永遠の恋人』に、航志朗は語りかけた。
「あなたが、愛さん。……安寿の母親ですね」
絵のなかの愛と目が合う。航志朗はなんとも言えない温かい気持ちに満たされた。初めて感じる大いなるものに包み込まれるような感覚だ。
(これが「母性」というものなのかもしれない)
だが、その温もりは長くは続かなかった。いきなり航志朗の頭のなかに強烈な懸念が襲って来た。顔色を変えて航志朗はがく然とした。
(まさか、俺と安寿は、兄妹なのか……)
両手で航志朗は頭を抱えた。北海道で聞いた恵の話を思い出す。すべてのパズルのピースが合致する。このまま真っ暗な池の底に落ちて沈んでしまいそうだ。だが、冷静になって航志朗は必死に考えた。
(いや、それは絶対にない。もしそうなら、父が俺たちの結婚を止めていたはずだ。それに、愛さんの存在を母も伊藤さんも知っていたはず。もし、安寿が父の子なら、あの時、何らかの手段を使って彼らも止めていただろう……)
航志朗は窓の外に広がる青空を見やった。
(安寿は俺とぜんぜん似ていない。もちろん父ともだ。俺たちに血の繋がりはない。……絶対に!)
居ても立っても居られずに航志朗はソファから立ち上がった。
(ここでの俺の仕事は終わった。安寿のところに帰る。今すぐに!)
突然、ドアをノックする音がして、航志朗は肩をびくっと震わせた。
「コーシ、……いらっしゃいますか?」
ノアの声だ。
「そろそろ、空港に向かう時間です」
航志朗は大声を出して言った。
「ノア、ありがとうございます。今、行きます」
革靴を脱いで、絵の前に航志朗は正座した。そして、静かに目を閉じて絵のなかの彼女に想いを伝えた。
「愛さん、私は心から安寿を愛しています。今、ここであなたに誓います。一生をかけて、私は全身全霊で安寿を守ります。どうか、私たちを見守っていてください」
航志朗は立ち上がって、絵のなかの彼女の手にそっと触れた。そこは温かいような気がした。
航志朗はドアに向かった。一度も航志朗は振り返らなかった。
最上階にたどり着いた。真っ暗な長い廊下を一歩一歩奥へ進む。まるで周りの時間が過去へと遡っていくようだ。やがて、航志朗は一番奥の部屋の前に立った。鍵と同じ真鍮製のドアノブに目を落とした。一度、航志朗は深呼吸をした。そして、鍵穴に鍵を差し込んで回した。鍵が外れる手ごたえを感じるとともに、低い金属音が廊下に鳴り響いた。
ゆっくりとドアノブを回して航志朗は部屋の中に入った。まず、古い漆喰の匂いが鼻についた。部屋は真っ暗で何も見えない。航志朗は窓際に行き、重厚なグレーのジャガード織りのカーテンを開けた。目の前に蒼く光る地中海が見えて、航志朗は少しだけ安堵した。
振り返ると航志朗は見つけた。広大な部屋の奥に置かれた豪奢な白いソファの前に、一点の油彩画が壁に掛けられている。航志朗は慎重に近づいて行った。こつこつと航志朗の黒い革靴の音が部屋じゅうに反響する。
航志朗はソファの前で立ちすくんだ。思わず頭のなかが真っ白になった。いや、真っ黒になったというべきかもしれない。呆然として航志朗はつぶやいた。
「あ、安寿……。どうして、ここに……」
その絵は、若い女の裸体画だった。長い艶やかな黒髪でその白い裸体を隠してはいるが、あるべき場所に官能的な陰影が描かれている。彼女はまっすぐにこちらを見つめている。その漆黒の瞳で。切実に彼女が何かを求めているのがわかる。すぐに何かを差し出さないと彼女は燃え尽きてしまいそうだ。そして、彼女は右足を突き出して誘っているようにも見える。
(本当に、あの父が描いたのか……)
だが、この作品は疑いようもなく岸が描いた絵だ。何よりの証拠に彼女は見覚えのある椅子に座っている。岸のアトリエに置いてある真紅のベルベットが張ってあるあの肘掛け椅子だ。あまりの衝撃に航志朗は目がかすんできて、あわてて両目を手でこすった。
そして、航志朗は気づいた。
(彼女は、……安寿じゃない)
どう見ても、絵のなかの女は安寿よりも心なしか豊かな胸をしている。
航志朗は声に出して彼女に問いかけた。
「あなたは、……誰なんだ?」
全身の力が抜けて航志朗はソファに座り込んだ。見てはいけないものを見てしまった後悔の念が押し寄せてくるが、もう遅い。それに、どうしても彼女の視線から目が離せない。
突然、航志朗は彼女の背後に真っ白な雪が降ってきたように見えた。
航志朗の脳裏に子どもの頃の微かな記憶がだんだんとよみがえってきた。
(俺は、彼女に会ったことがある。ずっと前に。……そう、十三歳の時だ)
その日は、東京では珍しく大雪警報が発令されていた。航志朗が通っていた私立中学では電車通学の生徒が多いので、午後の授業が休止になった。すでに電車は遅延し、やっと自宅の最寄り駅に到着した航志朗はため息をついた。道路に厚く雪が降り積もっている。無理やり自転車に乗ったが、車輪が雪に取られて前へ進めない。あきらめて航志朗は自転車を転がして帰途についた。黒い詰襟の制服の足元がじわじわと冷たく濡れていき、身体が底冷えして震えだした。
ずっと雪は降り続いている。長い時間をかけてやっと岸家にたどり着くと、門の前に見知らぬ女が立っていた。ベージュのロングコートを着ていて、長い黒髪をたらしている。彼女は傘をさしていなかった。思わず航志朗はその女に自分の黒い傘を傾けた。
女は航志朗に微笑みかけて言った。
「ありがとう。もしかして、あなたが、……航志朗さん?」
それは、優しく透き通った声音だった。呆然として航志朗は返事ができなかった。そして、なんて美しいひとなんだろうと航志朗は胸を詰まらせながら思った。彼女の背後に舞う雪がまるで白い翼のように見えた。
(天使みたいなひとだ……)
女は航志朗の傘をそっと押し返して言った。
「どうか風邪をひかないでね。あなたはとても大切なひとなんだから」
彼女は白い手を伸ばして航志朗の両頬に手を置いた。とても温かい手だった。だが、頼りなげで今にも消えてしまいそうだった。思わず航志朗は彼女を抱きしめたいと思った。それは、生まれて初めての感情だった。
「あ、あの、またお会いできますか?」
何も答えずに彼女は微笑んだ。なんだかとても哀しげな瞳をしていた。航志朗は胸の奥が締めつけられた。
そして、彼女は雪の降るなかを、航志朗の目の前から静かに去って行った。
『永遠の恋人』に、航志朗は語りかけた。
「あなたが、愛さん。……安寿の母親ですね」
絵のなかの愛と目が合う。航志朗はなんとも言えない温かい気持ちに満たされた。初めて感じる大いなるものに包み込まれるような感覚だ。
(これが「母性」というものなのかもしれない)
だが、その温もりは長くは続かなかった。いきなり航志朗の頭のなかに強烈な懸念が襲って来た。顔色を変えて航志朗はがく然とした。
(まさか、俺と安寿は、兄妹なのか……)
両手で航志朗は頭を抱えた。北海道で聞いた恵の話を思い出す。すべてのパズルのピースが合致する。このまま真っ暗な池の底に落ちて沈んでしまいそうだ。だが、冷静になって航志朗は必死に考えた。
(いや、それは絶対にない。もしそうなら、父が俺たちの結婚を止めていたはずだ。それに、愛さんの存在を母も伊藤さんも知っていたはず。もし、安寿が父の子なら、あの時、何らかの手段を使って彼らも止めていただろう……)
航志朗は窓の外に広がる青空を見やった。
(安寿は俺とぜんぜん似ていない。もちろん父ともだ。俺たちに血の繋がりはない。……絶対に!)
居ても立っても居られずに航志朗はソファから立ち上がった。
(ここでの俺の仕事は終わった。安寿のところに帰る。今すぐに!)
突然、ドアをノックする音がして、航志朗は肩をびくっと震わせた。
「コーシ、……いらっしゃいますか?」
ノアの声だ。
「そろそろ、空港に向かう時間です」
航志朗は大声を出して言った。
「ノア、ありがとうございます。今、行きます」
革靴を脱いで、絵の前に航志朗は正座した。そして、静かに目を閉じて絵のなかの彼女に想いを伝えた。
「愛さん、私は心から安寿を愛しています。今、ここであなたに誓います。一生をかけて、私は全身全霊で安寿を守ります。どうか、私たちを見守っていてください」
航志朗は立ち上がって、絵のなかの彼女の手にそっと触れた。そこは温かいような気がした。
航志朗はドアに向かった。一度も航志朗は振り返らなかった。