今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
ドアの外側にはノアが立っていた。廊下はライトが灯されて明るくなっている。部屋の外に出ると航志朗は一気に現実に引き戻された。
ノアは航志朗に向かって穏やかな口調で提案した。
「コーシ、ご出発される前にシャワーを浴びたらいかがでしょう。ここから東京へはロングフライトですから。ゲストルームにあなたのスーツケースを置いておきましたよ」
航志朗はノアの厚意に礼を言った。同時にノアの温かい好意も感じていた。
ノアの背中について行きながら、航志朗は尋ねた。
「ノア、あなたは、あの絵を見たことがありますか?」
振り返らずにノアは答えた。
「はい。十八歳の誕生日に一度だけ。父は『成人になった祝いだ』と言っていました」
ノアがその身の上を静かに語り始めた。
「父が心から愛するあの絵を見て、私はきつく胸を締めつけられました。限りなく美しく、そして、この世のあらゆる哀しみに覆われた絵でした。涙があふれて仕方がありませんでした。今もこの世界のどこかで生きているはずの実の母を想いました。私は孤児でした。生まれてすぐに孤児院に預けられたのです。ホアも私と似たような境遇です。あの絵を見た夜、私は高熱を出しました。一晩じゅう付きっきりでホアが看病してくれたんです。その夜から、彼女は私にとってなくてはならない存在になりました……」
あまりの衝撃に航志朗は何も言えなかった。その気配を察して、ノアは優しい声で言った。
「大丈夫ですよ、コーシ。もう遠い昔の話です。私の生まれ持った哀しみは、もう水に流しました。今の私はとても幸せですから」
ノアは振り返って航志朗に穏やかな顔で微笑んだ。
ゲストルームで航志朗は熱いシャワーを浴びて白いシャツに着替えた。テーブルの上にはワインクーラーが置かれていて、ダークグリーンのボトルに入った炭酸水が冷やされてあった。カットされたメロンとトリュフチョコレートも用意されている。大いに航志朗は感心した。
(彼は、とびきり優秀な秘書だ。それに素晴らしい人格者だ。俺なんて彼の足元にも及ばないな……)
邸宅のエントランスで、ホアが航志朗を見送りに出て来た。別れ際にホアはくすぐったそうに顔をほころばせた。その様子を航志朗が不思議に思っていると、ホアが航志朗の手を取って大きくふくらんだお腹を触らせた。
初めて妊婦の腹部に手を触れた航志朗は、驚きのあまり大声をあげた。
「赤ちゃんがお腹を蹴とばしている!」
愉しそうにノアが肩を揺すって笑った。ホアが幸せそうに微笑みながら言った。
「お腹の赤ちゃん、ものすごく元気な女の子なんですよ」
航志朗はホアのお腹を優しくなでた。
「そうか、ここにいるんだ。新しい命が」
目を潤ませてホアは航志朗を見つめた。おずおずとホアは航志朗の腕をつかんで背伸びして、航志朗の頬にキスして言った。
「コーシ、いつか私たちの子どもに会いに来てくださいね。あなたの愛するお方と一緒に」
優しく微笑みながら航志朗はうなずいた。
予想通りデュボアは姿を現さなかった。航志朗は『永遠の恋人』がいる部屋の窓を見上げた。そして、目を伏せて車に乗り込んだ。
その時、デュボアは目を閉じた安寿の絵を抱えて、その部屋のソファに座っていた。航志朗が乗った車が去って行く音をデュボアは耳をすませて聞いていた。
デュボアは、彼女に語りかけた。
「ねえ、君。やっと彼に会えたね。もう二度と会うことはないけれどね。きっと、彼は、私たち一族の軛を解放してくれる。君の天使とともに力を合わせて。もう、私はこの世に思い残すことはないよ」
デュボアは安寿の閉じた目に指の先でそっと触れた。
ノアは航志朗に向かって穏やかな口調で提案した。
「コーシ、ご出発される前にシャワーを浴びたらいかがでしょう。ここから東京へはロングフライトですから。ゲストルームにあなたのスーツケースを置いておきましたよ」
航志朗はノアの厚意に礼を言った。同時にノアの温かい好意も感じていた。
ノアの背中について行きながら、航志朗は尋ねた。
「ノア、あなたは、あの絵を見たことがありますか?」
振り返らずにノアは答えた。
「はい。十八歳の誕生日に一度だけ。父は『成人になった祝いだ』と言っていました」
ノアがその身の上を静かに語り始めた。
「父が心から愛するあの絵を見て、私はきつく胸を締めつけられました。限りなく美しく、そして、この世のあらゆる哀しみに覆われた絵でした。涙があふれて仕方がありませんでした。今もこの世界のどこかで生きているはずの実の母を想いました。私は孤児でした。生まれてすぐに孤児院に預けられたのです。ホアも私と似たような境遇です。あの絵を見た夜、私は高熱を出しました。一晩じゅう付きっきりでホアが看病してくれたんです。その夜から、彼女は私にとってなくてはならない存在になりました……」
あまりの衝撃に航志朗は何も言えなかった。その気配を察して、ノアは優しい声で言った。
「大丈夫ですよ、コーシ。もう遠い昔の話です。私の生まれ持った哀しみは、もう水に流しました。今の私はとても幸せですから」
ノアは振り返って航志朗に穏やかな顔で微笑んだ。
ゲストルームで航志朗は熱いシャワーを浴びて白いシャツに着替えた。テーブルの上にはワインクーラーが置かれていて、ダークグリーンのボトルに入った炭酸水が冷やされてあった。カットされたメロンとトリュフチョコレートも用意されている。大いに航志朗は感心した。
(彼は、とびきり優秀な秘書だ。それに素晴らしい人格者だ。俺なんて彼の足元にも及ばないな……)
邸宅のエントランスで、ホアが航志朗を見送りに出て来た。別れ際にホアはくすぐったそうに顔をほころばせた。その様子を航志朗が不思議に思っていると、ホアが航志朗の手を取って大きくふくらんだお腹を触らせた。
初めて妊婦の腹部に手を触れた航志朗は、驚きのあまり大声をあげた。
「赤ちゃんがお腹を蹴とばしている!」
愉しそうにノアが肩を揺すって笑った。ホアが幸せそうに微笑みながら言った。
「お腹の赤ちゃん、ものすごく元気な女の子なんですよ」
航志朗はホアのお腹を優しくなでた。
「そうか、ここにいるんだ。新しい命が」
目を潤ませてホアは航志朗を見つめた。おずおずとホアは航志朗の腕をつかんで背伸びして、航志朗の頬にキスして言った。
「コーシ、いつか私たちの子どもに会いに来てくださいね。あなたの愛するお方と一緒に」
優しく微笑みながら航志朗はうなずいた。
予想通りデュボアは姿を現さなかった。航志朗は『永遠の恋人』がいる部屋の窓を見上げた。そして、目を伏せて車に乗り込んだ。
その時、デュボアは目を閉じた安寿の絵を抱えて、その部屋のソファに座っていた。航志朗が乗った車が去って行く音をデュボアは耳をすませて聞いていた。
デュボアは、彼女に語りかけた。
「ねえ、君。やっと彼に会えたね。もう二度と会うことはないけれどね。きっと、彼は、私たち一族の軛を解放してくれる。君の天使とともに力を合わせて。もう、私はこの世に思い残すことはないよ」
デュボアは安寿の閉じた目に指の先でそっと触れた。