今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
白い月が早朝の空に浮かんでいる。頭をもたげる直前の太陽が描く赤とオレンジ色のグラデーションが美しい。時刻は午前六時前。航志朗は安寿の住む団地の入口から少し離れたところに車を止め、車の外に出て腕を組んで車に寄りかかっていた。安寿が団地から出てくるのを待っているのだ。安寿の高校の名前を調べるのは簡単だった。美術大学の付属高校は都内でも数校しかない。安寿が着ていた制服から、それが清華美術大学付属高校だとすぐにわかった。そして、航志朗はその高校が母の出身校だということを思い出して嫌悪感を持った。
しばらく待つと航志朗は(俺はまるでストーカーみたいだな……)と自嘲したい気分になってきた。約束をしていないというのに、ここで安寿と再会することができるのだろうか。しかし、航志朗には確信があった。
(三人の預言者に導かれて、今、俺はここにいる。……たぶん)
だんだん人通りが増えてきた。眠そうな目をこすりながらあわただしく出かけていくサラリーマンや学生たち、大泣きの幼い子どもの手を引いて歩くスーツ姿の若い母親。この国の朝の日常の風景がそこにある。午前七時半を過ぎると、航志朗はだんだん心配になってきた。
(彼女の家から学校までの電車での所要時間を考えると、そろそろ出かけないと始業時間に間に合わないんじゃないか? もしかして、俺は彼女とすれ違ってしまったのか)
その時、安寿は珍しく寝坊して、あわてて制服に着替えていた。こともあろうにその朝に限って恵は仕事が立て込んでいて、始発に乗って出版社に出かけていた。朝食を食べる時間はない。安寿は大きなキャンバスが入った黒いナイロンバッグを持って家を出た。大きな荷物は朝の満員電車では迷惑になるので、いつもキャンバスを学校に持って行く日は早めに出かけている。今朝もそのつもりだったのだが、昨夜はなぜだか眠くて仕方がなかった。午前六時に目覚まし時計が鳴ったような気がする。たぶん二度寝をしてしまったのだ。そう、なんだか楽しい夢を見ていた。でも残念なことに、どんな夢だったかまったく覚えていない。
安寿はエレベーターには乗らずに、かけ足で団地の外階段を降りて走り出した。出がけに鏡を見たら後ろ髪がはねていたが、当然ドライヤーで直す時間はなかった。
息を切らせて団地の入口を出た時だった。突然、安寿は自分の名前を呼ぶ声を聞いた。聞き覚えのある声だ。
「安寿さん!」
その声に振り向くと、あの男が立っていた。
「……岸さん?」
あわてて安寿は後ろ髪を手で押さえた。
航志朗は安寿に近づくとキャンバスバッグをそっと安寿の肩から外して、自分の肩に掛けた。安寿は突然目の前に現れた航志朗に驚いて声も出ない。航志朗はその琥珀色の瞳で安寿を正面から見下ろした。また安寿は航志朗の透き通った力強いまなざしにとらえられてしまった。
(岸先生と同じ色の瞳だけど、このひとの瞳は、……ちょっと怖い)
航志朗はまっすぐ安寿を見つめて言った。
「君に話がある。俺が君を学校まで車で送るから、その間に話そう」
航志朗は助手席のドアを開けて安寿を車に乗せた。安寿は何も言い出せずに、航志朗の言うがままに助手席に座った。そして、航志朗は車を発進させた。
「学校の始業時間は何時なんだ?」
安寿は腕時計を見て言った。
「ええと……、八時四十分です」
航志朗はカーナビゲーションを慣れた手つきで操作した。
「まあ、ぎりぎりセーフで到着できるだろう」
いつもとは違う朝の風景を安寿は不思議に思った。夢の続きを見ているみたいだ。航志朗は安寿が落ち着いてきたのを見はからってから言った。
「ずいぶん急いでいたけれど、朝寝坊でもしたのか」
図星だ。安寿は顔を赤くしてうなずいた。
「もしかして、朝食を食べていないとか」
また安寿は黙ってうなずくしかなかった。
「これ、食べるか? 俺の食べ残しでよかったら」と言って、航志朗はクラッカーの箱を安寿に手渡した。安寿が躊躇していると、航志朗はくすっと笑いながら言った。
「いいよ、遠慮しなくて」
安寿は「すいません、いただきます」と小さな声で言ってクラッカーを口にした。だが、クラッカーのかけらがのどに引っかかり、安寿は咳き込んでしまった。その姿を横目で見た航志朗は「これ飲んだら? コーヒーが入ってる」と言いながら、ステンレスボトルを安寿に手渡した。ステンレスボトルは直飲みだ。安寿は一瞬戸惑ったが仕方がない。口をつけて飲んだ。ものすごく苦い。顔をしかめて仏頂面になった安寿を見て、苦笑いしながら航志朗が訊いた。
「君、コーヒーが苦手?」
素直に安寿はうなずいた。
航志朗は前を向いてなにげなく言った。
「俺はこれから昼すぎの便でフランスに行ってくる。母から聞いているだろ? 君がモデルになった絵を顧客に手渡しに行く」
「今日だったんですか! 成田空港に行くんですよね。今から間に合うんですか?」
航志朗はこともなげに言った。
「ぎりぎり大丈夫だろう。まあ、俺は飛行機の移動に慣れているから心配するな」
安寿は海外に行ったことはないし、飛行機にすら乗ったことがない。(このひととは、本当に住む世界が違う……)と安寿は心の底から思った。
航志朗は、今、安寿が自分の隣に座っていることに胸が高鳴ってどうしようもなかった。だが、わざと安寿に素っ気ない態度を取ってしまう。本当に大人げないと航志朗は胸の内で思った。
予想していたよりも道は順調に流れている。高校の始業時間には間に合うだろう。
航志朗は息を整えてから本題に入った。
「父の絵を見せてもらったよ。美しいデッサンだ。そして、相当な高値がついた」
安寿は何も言えなかった。安寿には絵画の市場価値がまったくわからない。
「だが、気になることがある」
急に強い口調になって航志朗が言った。
「えっ?」
安寿は胸がどきっとした。
(……どういうことなの?)
「君は素の自分を画家にさらけ出している。そして、画家は素の君を描く。絵に描かれた素の君は、君の知らない誰かに絵画として所有される」
安寿は航志朗が伝えようとしている真意がまったく理解できない。そっとうかがう航志朗の横顔は冷たく険しい顔をしている。
「それは、君にとって本当に危険なことだ。君は他人に間接的に所有されているという自覚のないまま、少しずつその他人に君の生力が奪われていくことになる。だから、君は自分で自分自身を守らなければならない」
その航志朗の言葉に、安寿はだんだん恐怖を感じてきた。
「あの、岸さん。『生力』ってなんですか?」
「人の核にある生きる力だ」
(怖い……。でも、どうすればいいのか、私には全然わからない)
安寿はやっとの思いで航志朗に尋ねた。
「どうやって、自分自身を守ればいいんですか?」
安寿の声は震えている。
航志朗は自分の言葉が安寿を怖がらせていることに気づいた。そして、赤信号で停車すると意図的に航志朗は微笑んで、安寿と軽く視線を合わせた。安寿は航志朗の落ち着いたまなざしに恐怖にとらわれた気持ちがほぐれてきた。少しゆっくりとした口調を意識して航志朗は言った。
「そうだな。君の目は画家を見ていても、君の心は画家からずらすといい」
「……ずらす?」
「そう。シンプルに何か別のことを考えるんだ。例えば、君の好きなこととか、ワクワクすることとか、今日の咲さんの手作りおやつは何かな……、とか」
それを聞いた安寿はくすっと笑って思った。
(確かに、私は毎回咲さんのおやつを楽しみにしている)
安寿の可愛らしい微笑みを見て、航志朗は前を見ながら表情をゆるませた。
「そんなことでいいんですか?」
「ああ。とにかく画家に素の自分を無防備にさらけ出すな」
「はい、わかりました。覚えておきます。あの、岸さん、いろいろありがとうございます」
本心から安寿は頭を下げた。
航志朗は心のなかで切なくつぶやいた。
(本当は、俺のことを考えろ。……って、言いたいんだけどな)
安寿の高校の近くまで来た。さすがに校門の前で降ろすのはまずいだろうと航志朗は判断して、少し離れたところに車を停めた。まだ始業時間まで五分ほどある。
「なんとか間に合ったな。……ん? 安寿さん、クラッカーがついてる。ちょっと、失礼」と航志朗は言うと安寿に顔を寄せて、安寿の口元についているクラッカーのかけらをつまんで取った。安寿は航志朗の顔が急に近づき、航志朗の冷たい指先が口元に触れて胸がどきっとした。恥ずかしさで顔が真っ赤になる。このひとの前では私は小さな子どもみたいだと安寿は自分が情けなくなった。
「岸さん、送ってくださって本当にありがとうございました。とても助かりました。あの、フランスにお気をつけていってらっしゃってください」と安寿は失礼のないように気をつけながら礼を言って車を降りた。そして、一度振り返って深々とお辞儀をすると、安寿は航志朗の前から走り去って行った。
車の中に一人残された航志朗はため息をついて助手席に手を触れた。そこにはまだ安寿の温もりが残っていた。つかのまの安寿との再会の時間だった。
「さて、俺も行くか」と口に出して自分を奮い立たせて、航志朗はステンレスボトルのコーヒーをひと口飲んだ。ボトルの飲み口をまじまじと見て、思わず航志朗は人知れず顔を赤らめた。胸をしめつけられながら振り返り、後部座席に置いてあるアタッシェケースを見つめる。そして、航志朗はアクセルを踏んで車を成田空港に向けて発進させた。
(……安寿?)
ちょうどそこへ通りかかった蒼が、遠目に車の中にいる安寿を見つけた。すぐに安寿は車の外に出て校門へ向かって走って行った。
顔色を変えて蒼はその場に立ちつくした。車の中で運転席に座った男と安寿がキスしていたように蒼には見えた。
その時、高校の始業時間を知らせるチャイムが鳴った。
航志朗は成田空港に着いてからビジネスクラスのラウンジでひと息つくと、スマートフォンを繰って伊藤に電話した。
「伊藤さん、今、成田にいます。お手数をおかけして申しわけありませんが、空港の駐車場に停めてある車を戻しておいてもらえますか」
『かしこまりました。航志朗坊っちゃん、安寿さまに会いに行かれたのですね?』
思わず航志朗はうろたえた。
(……どうしてわかるんだ?)
『航志朗坊っちゃん、僭越ながら申しあげます。安寿さまは、まだ高校生です。それに、とても純粋なお心をお持ちの大事なお嬢さまでございます。くれぐれも生半可なお気持ちで、安寿さまにお近づきになられないようにお願いいたします』
率直に航志朗は驚いた。伊藤が航志朗に苦言を呈したことは、今まで一度もなかったと記憶する。
「……わかりました。では、いってきます」
『いってらっしゃいませ。航志朗坊っちゃん、お気をつけて』
航志朗は搭乗ゲートを通りボーディングブリッジを歩きながら、ふとガラス窓を見た。あまり清掃が行き届いていないらしく、それは埃っぽく汚れていた。窓の外は曇り空が広がっている。航志朗はそのグレイッシュな揺らぎを見て、やけに胸が騒めいた。
しばらく待つと航志朗は(俺はまるでストーカーみたいだな……)と自嘲したい気分になってきた。約束をしていないというのに、ここで安寿と再会することができるのだろうか。しかし、航志朗には確信があった。
(三人の預言者に導かれて、今、俺はここにいる。……たぶん)
だんだん人通りが増えてきた。眠そうな目をこすりながらあわただしく出かけていくサラリーマンや学生たち、大泣きの幼い子どもの手を引いて歩くスーツ姿の若い母親。この国の朝の日常の風景がそこにある。午前七時半を過ぎると、航志朗はだんだん心配になってきた。
(彼女の家から学校までの電車での所要時間を考えると、そろそろ出かけないと始業時間に間に合わないんじゃないか? もしかして、俺は彼女とすれ違ってしまったのか)
その時、安寿は珍しく寝坊して、あわてて制服に着替えていた。こともあろうにその朝に限って恵は仕事が立て込んでいて、始発に乗って出版社に出かけていた。朝食を食べる時間はない。安寿は大きなキャンバスが入った黒いナイロンバッグを持って家を出た。大きな荷物は朝の満員電車では迷惑になるので、いつもキャンバスを学校に持って行く日は早めに出かけている。今朝もそのつもりだったのだが、昨夜はなぜだか眠くて仕方がなかった。午前六時に目覚まし時計が鳴ったような気がする。たぶん二度寝をしてしまったのだ。そう、なんだか楽しい夢を見ていた。でも残念なことに、どんな夢だったかまったく覚えていない。
安寿はエレベーターには乗らずに、かけ足で団地の外階段を降りて走り出した。出がけに鏡を見たら後ろ髪がはねていたが、当然ドライヤーで直す時間はなかった。
息を切らせて団地の入口を出た時だった。突然、安寿は自分の名前を呼ぶ声を聞いた。聞き覚えのある声だ。
「安寿さん!」
その声に振り向くと、あの男が立っていた。
「……岸さん?」
あわてて安寿は後ろ髪を手で押さえた。
航志朗は安寿に近づくとキャンバスバッグをそっと安寿の肩から外して、自分の肩に掛けた。安寿は突然目の前に現れた航志朗に驚いて声も出ない。航志朗はその琥珀色の瞳で安寿を正面から見下ろした。また安寿は航志朗の透き通った力強いまなざしにとらえられてしまった。
(岸先生と同じ色の瞳だけど、このひとの瞳は、……ちょっと怖い)
航志朗はまっすぐ安寿を見つめて言った。
「君に話がある。俺が君を学校まで車で送るから、その間に話そう」
航志朗は助手席のドアを開けて安寿を車に乗せた。安寿は何も言い出せずに、航志朗の言うがままに助手席に座った。そして、航志朗は車を発進させた。
「学校の始業時間は何時なんだ?」
安寿は腕時計を見て言った。
「ええと……、八時四十分です」
航志朗はカーナビゲーションを慣れた手つきで操作した。
「まあ、ぎりぎりセーフで到着できるだろう」
いつもとは違う朝の風景を安寿は不思議に思った。夢の続きを見ているみたいだ。航志朗は安寿が落ち着いてきたのを見はからってから言った。
「ずいぶん急いでいたけれど、朝寝坊でもしたのか」
図星だ。安寿は顔を赤くしてうなずいた。
「もしかして、朝食を食べていないとか」
また安寿は黙ってうなずくしかなかった。
「これ、食べるか? 俺の食べ残しでよかったら」と言って、航志朗はクラッカーの箱を安寿に手渡した。安寿が躊躇していると、航志朗はくすっと笑いながら言った。
「いいよ、遠慮しなくて」
安寿は「すいません、いただきます」と小さな声で言ってクラッカーを口にした。だが、クラッカーのかけらがのどに引っかかり、安寿は咳き込んでしまった。その姿を横目で見た航志朗は「これ飲んだら? コーヒーが入ってる」と言いながら、ステンレスボトルを安寿に手渡した。ステンレスボトルは直飲みだ。安寿は一瞬戸惑ったが仕方がない。口をつけて飲んだ。ものすごく苦い。顔をしかめて仏頂面になった安寿を見て、苦笑いしながら航志朗が訊いた。
「君、コーヒーが苦手?」
素直に安寿はうなずいた。
航志朗は前を向いてなにげなく言った。
「俺はこれから昼すぎの便でフランスに行ってくる。母から聞いているだろ? 君がモデルになった絵を顧客に手渡しに行く」
「今日だったんですか! 成田空港に行くんですよね。今から間に合うんですか?」
航志朗はこともなげに言った。
「ぎりぎり大丈夫だろう。まあ、俺は飛行機の移動に慣れているから心配するな」
安寿は海外に行ったことはないし、飛行機にすら乗ったことがない。(このひととは、本当に住む世界が違う……)と安寿は心の底から思った。
航志朗は、今、安寿が自分の隣に座っていることに胸が高鳴ってどうしようもなかった。だが、わざと安寿に素っ気ない態度を取ってしまう。本当に大人げないと航志朗は胸の内で思った。
予想していたよりも道は順調に流れている。高校の始業時間には間に合うだろう。
航志朗は息を整えてから本題に入った。
「父の絵を見せてもらったよ。美しいデッサンだ。そして、相当な高値がついた」
安寿は何も言えなかった。安寿には絵画の市場価値がまったくわからない。
「だが、気になることがある」
急に強い口調になって航志朗が言った。
「えっ?」
安寿は胸がどきっとした。
(……どういうことなの?)
「君は素の自分を画家にさらけ出している。そして、画家は素の君を描く。絵に描かれた素の君は、君の知らない誰かに絵画として所有される」
安寿は航志朗が伝えようとしている真意がまったく理解できない。そっとうかがう航志朗の横顔は冷たく険しい顔をしている。
「それは、君にとって本当に危険なことだ。君は他人に間接的に所有されているという自覚のないまま、少しずつその他人に君の生力が奪われていくことになる。だから、君は自分で自分自身を守らなければならない」
その航志朗の言葉に、安寿はだんだん恐怖を感じてきた。
「あの、岸さん。『生力』ってなんですか?」
「人の核にある生きる力だ」
(怖い……。でも、どうすればいいのか、私には全然わからない)
安寿はやっとの思いで航志朗に尋ねた。
「どうやって、自分自身を守ればいいんですか?」
安寿の声は震えている。
航志朗は自分の言葉が安寿を怖がらせていることに気づいた。そして、赤信号で停車すると意図的に航志朗は微笑んで、安寿と軽く視線を合わせた。安寿は航志朗の落ち着いたまなざしに恐怖にとらわれた気持ちがほぐれてきた。少しゆっくりとした口調を意識して航志朗は言った。
「そうだな。君の目は画家を見ていても、君の心は画家からずらすといい」
「……ずらす?」
「そう。シンプルに何か別のことを考えるんだ。例えば、君の好きなこととか、ワクワクすることとか、今日の咲さんの手作りおやつは何かな……、とか」
それを聞いた安寿はくすっと笑って思った。
(確かに、私は毎回咲さんのおやつを楽しみにしている)
安寿の可愛らしい微笑みを見て、航志朗は前を見ながら表情をゆるませた。
「そんなことでいいんですか?」
「ああ。とにかく画家に素の自分を無防備にさらけ出すな」
「はい、わかりました。覚えておきます。あの、岸さん、いろいろありがとうございます」
本心から安寿は頭を下げた。
航志朗は心のなかで切なくつぶやいた。
(本当は、俺のことを考えろ。……って、言いたいんだけどな)
安寿の高校の近くまで来た。さすがに校門の前で降ろすのはまずいだろうと航志朗は判断して、少し離れたところに車を停めた。まだ始業時間まで五分ほどある。
「なんとか間に合ったな。……ん? 安寿さん、クラッカーがついてる。ちょっと、失礼」と航志朗は言うと安寿に顔を寄せて、安寿の口元についているクラッカーのかけらをつまんで取った。安寿は航志朗の顔が急に近づき、航志朗の冷たい指先が口元に触れて胸がどきっとした。恥ずかしさで顔が真っ赤になる。このひとの前では私は小さな子どもみたいだと安寿は自分が情けなくなった。
「岸さん、送ってくださって本当にありがとうございました。とても助かりました。あの、フランスにお気をつけていってらっしゃってください」と安寿は失礼のないように気をつけながら礼を言って車を降りた。そして、一度振り返って深々とお辞儀をすると、安寿は航志朗の前から走り去って行った。
車の中に一人残された航志朗はため息をついて助手席に手を触れた。そこにはまだ安寿の温もりが残っていた。つかのまの安寿との再会の時間だった。
「さて、俺も行くか」と口に出して自分を奮い立たせて、航志朗はステンレスボトルのコーヒーをひと口飲んだ。ボトルの飲み口をまじまじと見て、思わず航志朗は人知れず顔を赤らめた。胸をしめつけられながら振り返り、後部座席に置いてあるアタッシェケースを見つめる。そして、航志朗はアクセルを踏んで車を成田空港に向けて発進させた。
(……安寿?)
ちょうどそこへ通りかかった蒼が、遠目に車の中にいる安寿を見つけた。すぐに安寿は車の外に出て校門へ向かって走って行った。
顔色を変えて蒼はその場に立ちつくした。車の中で運転席に座った男と安寿がキスしていたように蒼には見えた。
その時、高校の始業時間を知らせるチャイムが鳴った。
航志朗は成田空港に着いてからビジネスクラスのラウンジでひと息つくと、スマートフォンを繰って伊藤に電話した。
「伊藤さん、今、成田にいます。お手数をおかけして申しわけありませんが、空港の駐車場に停めてある車を戻しておいてもらえますか」
『かしこまりました。航志朗坊っちゃん、安寿さまに会いに行かれたのですね?』
思わず航志朗はうろたえた。
(……どうしてわかるんだ?)
『航志朗坊っちゃん、僭越ながら申しあげます。安寿さまは、まだ高校生です。それに、とても純粋なお心をお持ちの大事なお嬢さまでございます。くれぐれも生半可なお気持ちで、安寿さまにお近づきになられないようにお願いいたします』
率直に航志朗は驚いた。伊藤が航志朗に苦言を呈したことは、今まで一度もなかったと記憶する。
「……わかりました。では、いってきます」
『いってらっしゃいませ。航志朗坊っちゃん、お気をつけて』
航志朗は搭乗ゲートを通りボーディングブリッジを歩きながら、ふとガラス窓を見た。あまり清掃が行き届いていないらしく、それは埃っぽく汚れていた。窓の外は曇り空が広がっている。航志朗はそのグレイッシュな揺らぎを見て、やけに胸が騒めいた。