今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 外は真っ暗だ。街灯が灯ってはいるが、蒼はアンヌのことが心配になった。だが、ほぼ初対面のアンヌを家まで送るとは言い出せない。その時、アンヌは蒼の目の前でスマートフォンを操作した。そして、温もりのある柔らかい声でゆっくりと蒼に言った。

 「私の家の車が、迎えに来てくれるの。アオイ、一緒に乗って。あなたを、家まで送るわね」

 思わず蒼は大きく目を見開いた。

 蒼とアンヌは並んでセーヌ川を見下ろした。ここはパリだ。暗闇の中のあちらこちらで抱き合うカップルの姿が目につく。フランスにやって来たばかりの頃は目のやり場に困ったが、もう慣れた。社交上のあいさつのキスである「ビズ」はもちろん、真っ昼間にいきなり目の前で抱き合ってキスし合うカップルを見ても驚かなくなってきた。ふと隣を見ると、アンヌが新聞紙に包まれた青いバラの香りをかいでいる。アンヌはバラの花びらにそっとキスした。そして、蒼を見上げて微笑んだ。それは、とても美しい笑顔だった。思わず蒼は胸がどきっとした。

 やがて、クラシカルな高級車が蒼とアンヌの目の前に停まった。また蒼は目を見張った。助手席から上品な白いドレスシャツを着た小さな金髪の男の子が飛び出してきてアンヌに抱きついた。目を潤ませた男の子はアンヌを見上げて大きな声をあげた。

 「遅いよ、アンヌ! 僕、ものすごく心配したんだよ!」

 アンヌは小さな男の子の頭を優しくなでて、愛おしそうに男の子の頬にキスした。

 アンヌは微笑みながらゆっくりと蒼に紹介した。

 「彼、……私の弟よ」

 アンヌの小さな弟は、やっと蒼の存在に気づいて大声で叫んだ。

 「うわあー(オ・ラ・ラー)! アンヌの恋人(モン・シェリ)!」

 真っ赤になったアンヌはあわてて首を振った。蒼は苦笑いして言った。

 「初めまして。俺は、アオイ。君のお姉さんのクラスメイトだ」

 「君、どこから来たの?」

 姉と同じ真っ青な瞳で小さな男の子は蒼に尋ねた。

 「日本(ジャポン)だよ」

 アンヌの弟は目を大きく見開いて驚いた。

 「日本! 本当に!」

 蒼は男の子のその驚きようがまったく理解できなかった。

 アンヌは車の助手席のドアを開けて、弟を強引に押し込んだ。その時、アンヌは弟の名前をはっきりと口にした。

 「さあ、乗りなさい。……ロマン!」

 それから、アンヌにうながされて後部座席に乗り込んだ蒼は、車の内装の高級感に圧倒された。

 (彼女って、フランスの富豪か貴族の家の出身なのかもしれないな……)

 改めて蒼は隣に座っているアンヌの姿を見つめた。一見、アンヌは質素な身なりをしている。だが、蒼にはわかる。大切に服を扱い、そして着こなしている。アンヌが着ている少し色が褪めたワンピースの袖口に花の刺繍がほどこされてあった。おそらく、穴が開いてしまったのを補修したのだろう。蒼は花の刺繍にそっと手を触れて訊いた。

 「これ、君が縫ったの?」

 恥ずかしそうにアンヌはうなずいて、ゆっくりと小さな声で言った。

 「このワンピース、ママンのお気に入りの服だったの。おばあちゃんが作った服よ」

 「そうなんだ。素敵なワンピースだね」

 可愛らしくアンヌははにかんだ。

 アンヌが過去形を使ったことに蒼は気づいていた。ひそかに蒼は思った。

 (もしかして、彼女のお母さんも亡くなっているのかもしれない。安寿と同じように)

 蒼が暮らす留学生専門のアパルトマンの前に到着した。蒼はアンヌに心から礼を言った。

 「ありがとう、アンヌ。本当に助かったよ。また明日、スクールで会おう」

 突然、車を降りようとした蒼の腕をアンヌはつかんだ。そして、身を乗り出して蒼にキスした。驚いた蒼は真っ赤になった。助手席からロマンが振り返って、ふたりの様子を愉しそうに眺めた。呆然として立ちすくんだ蒼を置いて、車は去って行った。

 心のなかで蒼はつぶやいた。

 (アンヌ……。彼女、スイートピーみたいな甘い香りがしたな)















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