今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第18章 二十歳の誕生日と二回目の結婚記念日
第1節
また新しい春がめぐってきた。岸家のアトリエのウッドデッキには、散った桜の花びらがまだ落ちている。
今日は日曜日だが、アトリエで安寿は岸の前にいた。安寿は京友禅の華やかな春の草花の刺繍がほどこされた赤紅色の振袖を着て、真紅の肘掛け椅子に座っていた。膝に置かれた左手の薬指には翡翠の指輪がつけられて、薄化粧をした安寿の唇は振袖と同じ真っ赤な口紅が塗られている。
安寿の目の前には大型のイーゼルが立て掛けられている。キャンバスの向こうで、岸がパレットの上に赤い油絵具を補充しているのが安寿の目に入った。
ふと窓の外を安寿は見た。航志朗の車のエンジン音が聞こえたような気がしたのだ。
(そろそろ、航志朗さんがやって来る時間だ……)
思わず安寿は嬉しそうに微笑んだ。
顔を上げて岸が安寿を見つめた。安寿は岸を見つめ返した。だが、安寿は画家を見ていない。航志朗の存在をその心の目で追っていた。
その時、ふいにドアが開くと、航志朗がアトリエに入って来た。航志朗は安寿の高校の卒業式の時に着ていたダークグレーのスーツを身につけている。それに、きちんとネクタイを締めている。一瞬、安寿と航志朗は目を合わせて互いを確認した。すぐに安寿は視線を元に戻したが、うつむいて両頬を赤くしてから我慢できずに笑みを浮かべた。それに気づいた岸は軽くため息をついた。いつものように航志朗はドア近くの壁に寄りかかって無言で腕を組んだ。
それから、しばらくの間、画家がキャンバスの上に画筆を走らせる音に安寿は耳をすませた。
古時計が鳴り、正午を知らせた。岸は画筆を筆洗油で洗いながら安寿に声をかけた。
「安寿さん、今日はここまでにしましょう。これから、すぐに神社に行かれるのですか?」
安寿は航志朗を見た。航志朗は安寿に向かってうなずいた。
「はい。これから航志朗さんと成人の奉告に行って参ります」
「航志朗、くれぐれも安全運転でお願いするよ。今日は、安寿さんの二十歳のお誕生日なんだから」と岸は下に目を落としたままで言った。
「はい。わかっています。どうぞ、ご心配なく」
結局、岸は航志朗の姿を一度も見ずにアトリエを出て行った。
組んだ腕をほどいた航志朗は、ゆっくりと肘掛け椅子に座った安寿に近づいて行った。柔らかく微笑みながら安寿は航志朗を迎えた。航志朗は安寿を見下ろして言った。
「安寿、今すぐ君にキスしたい。その口紅、落としてくれないか」
安寿は航志朗を見上げてうなずいた。安寿は立ち上がって、アトリエのデスクの上に置いてあるティッシュペーパーを取り出して口紅を拭いた。安寿は航志朗の前に戻ってくると目を閉じてささやくように言った。
「航志朗さん、これでいいですか?」
答える代わりに、航志朗はまだ少し赤みの残る安寿の唇に口づけた。そして、安寿を振袖ごと力を込めて抱きしめた。
安寿は航志朗にきつくしがみついて言った。
「おかえりなさい、航志朗さん」
「ただいま、安寿。それから、二十歳の誕生日おめでとう」
安寿は航志朗の琥珀色の瞳を見上げて微笑んだ。
「ありがとうございます、航志朗さん」
安寿と航志朗は手をつないで、岸家の駐車場に停めてある航志朗の車に向かった。その後をあわてて咲が風呂敷包みを抱えて追いかけた。
「安寿さま、航志朗坊っちゃん! お重箱をどうぞお持ちくださいませ!」
礼を言って航志朗が受け取り、後部座席に置いた。
助手席に座った安寿が会釈して礼を言った。
「咲さん、いつもありがとうございます」
仲むつまじいふたりの様子が嬉しくて仕方がない咲は、「安寿さま、どうぞ航志朗坊っちゃんとご一緒に、すてきな二十歳のお誕生日をお過ごしくださいね!」と興奮ぎみに早口で言った。恥ずかしそうに航志朗を見てから安寿は咲に微笑んだ。
車が発進すると、安寿は航志朗に困った様子でおずおずと言い出した。
「あの、航志朗さん、着替えてきたほうがよかったのかも。神社にお参りに行くには、ちょっと派手ではないでしょうか」
安寿を一瞬見てから、愉しそうに航志朗が答えた。
「いいじゃないか。とても君はきれいなんだから」
赤信号で停止すると安寿はショルダーバッグから色付きリップクリームを取り出して唇に塗った。そして、長い黒髪を手ぐしで整えてから、航志朗に微笑みかけた。少し鼻の下を伸ばして航志朗は胸を弾ませた。
(今日、安寿は二十歳になったのか。そうか、まだ二十歳なんだ。もうあんなにも大人の女性なのに)
急に航志朗は身体の奥がうずくのを感じて顔を赤らめた。
(また今夜も、彼女と……)
昨年の夏に北海道から安寿と一緒に帰って来て以降、航志朗は、三、四週間ごとに帰国していた。そのたびに航志朗のマンションで身も心もとろけるような甘い夜を安寿とともに過ごしてきた。航志朗は安寿を横目で見て胸を震わせた。
(これからも、ますます俺は彼女に溺れていくんだろうな……)
今日は日曜日だが、アトリエで安寿は岸の前にいた。安寿は京友禅の華やかな春の草花の刺繍がほどこされた赤紅色の振袖を着て、真紅の肘掛け椅子に座っていた。膝に置かれた左手の薬指には翡翠の指輪がつけられて、薄化粧をした安寿の唇は振袖と同じ真っ赤な口紅が塗られている。
安寿の目の前には大型のイーゼルが立て掛けられている。キャンバスの向こうで、岸がパレットの上に赤い油絵具を補充しているのが安寿の目に入った。
ふと窓の外を安寿は見た。航志朗の車のエンジン音が聞こえたような気がしたのだ。
(そろそろ、航志朗さんがやって来る時間だ……)
思わず安寿は嬉しそうに微笑んだ。
顔を上げて岸が安寿を見つめた。安寿は岸を見つめ返した。だが、安寿は画家を見ていない。航志朗の存在をその心の目で追っていた。
その時、ふいにドアが開くと、航志朗がアトリエに入って来た。航志朗は安寿の高校の卒業式の時に着ていたダークグレーのスーツを身につけている。それに、きちんとネクタイを締めている。一瞬、安寿と航志朗は目を合わせて互いを確認した。すぐに安寿は視線を元に戻したが、うつむいて両頬を赤くしてから我慢できずに笑みを浮かべた。それに気づいた岸は軽くため息をついた。いつものように航志朗はドア近くの壁に寄りかかって無言で腕を組んだ。
それから、しばらくの間、画家がキャンバスの上に画筆を走らせる音に安寿は耳をすませた。
古時計が鳴り、正午を知らせた。岸は画筆を筆洗油で洗いながら安寿に声をかけた。
「安寿さん、今日はここまでにしましょう。これから、すぐに神社に行かれるのですか?」
安寿は航志朗を見た。航志朗は安寿に向かってうなずいた。
「はい。これから航志朗さんと成人の奉告に行って参ります」
「航志朗、くれぐれも安全運転でお願いするよ。今日は、安寿さんの二十歳のお誕生日なんだから」と岸は下に目を落としたままで言った。
「はい。わかっています。どうぞ、ご心配なく」
結局、岸は航志朗の姿を一度も見ずにアトリエを出て行った。
組んだ腕をほどいた航志朗は、ゆっくりと肘掛け椅子に座った安寿に近づいて行った。柔らかく微笑みながら安寿は航志朗を迎えた。航志朗は安寿を見下ろして言った。
「安寿、今すぐ君にキスしたい。その口紅、落としてくれないか」
安寿は航志朗を見上げてうなずいた。安寿は立ち上がって、アトリエのデスクの上に置いてあるティッシュペーパーを取り出して口紅を拭いた。安寿は航志朗の前に戻ってくると目を閉じてささやくように言った。
「航志朗さん、これでいいですか?」
答える代わりに、航志朗はまだ少し赤みの残る安寿の唇に口づけた。そして、安寿を振袖ごと力を込めて抱きしめた。
安寿は航志朗にきつくしがみついて言った。
「おかえりなさい、航志朗さん」
「ただいま、安寿。それから、二十歳の誕生日おめでとう」
安寿は航志朗の琥珀色の瞳を見上げて微笑んだ。
「ありがとうございます、航志朗さん」
安寿と航志朗は手をつないで、岸家の駐車場に停めてある航志朗の車に向かった。その後をあわてて咲が風呂敷包みを抱えて追いかけた。
「安寿さま、航志朗坊っちゃん! お重箱をどうぞお持ちくださいませ!」
礼を言って航志朗が受け取り、後部座席に置いた。
助手席に座った安寿が会釈して礼を言った。
「咲さん、いつもありがとうございます」
仲むつまじいふたりの様子が嬉しくて仕方がない咲は、「安寿さま、どうぞ航志朗坊っちゃんとご一緒に、すてきな二十歳のお誕生日をお過ごしくださいね!」と興奮ぎみに早口で言った。恥ずかしそうに航志朗を見てから安寿は咲に微笑んだ。
車が発進すると、安寿は航志朗に困った様子でおずおずと言い出した。
「あの、航志朗さん、着替えてきたほうがよかったのかも。神社にお参りに行くには、ちょっと派手ではないでしょうか」
安寿を一瞬見てから、愉しそうに航志朗が答えた。
「いいじゃないか。とても君はきれいなんだから」
赤信号で停止すると安寿はショルダーバッグから色付きリップクリームを取り出して唇に塗った。そして、長い黒髪を手ぐしで整えてから、航志朗に微笑みかけた。少し鼻の下を伸ばして航志朗は胸を弾ませた。
(今日、安寿は二十歳になったのか。そうか、まだ二十歳なんだ。もうあんなにも大人の女性なのに)
急に航志朗は身体の奥がうずくのを感じて顔を赤らめた。
(また今夜も、彼女と……)
昨年の夏に北海道から安寿と一緒に帰って来て以降、航志朗は、三、四週間ごとに帰国していた。そのたびに航志朗のマンションで身も心もとろけるような甘い夜を安寿とともに過ごしてきた。航志朗は安寿を横目で見て胸を震わせた。
(これからも、ますます俺は彼女に溺れていくんだろうな……)