今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第2節

 航志朗は安寿の横髪をかき分けて現れた耳たぶにキスしてから車を発車させた。恥ずかしそうに安寿はうつむいてから微笑みを口元に浮かべた。ふたりが乗った車は神社の森の中の車道を低速で走って行く。すみずみまでよく管理された樹木を眺めながら、安寿はこの振袖を初めて身にまとった時のことを思い出していた。 

 昨年の年末に安寿は華鶴に連れられて、初めて華鶴の実家である鎌倉の黒川家に赴いた。もちろん、あの黒川皓貴の自邸だ。はじめ華鶴に誘われた時にすぐ断ろうと思ったが、なぜだか行かなければならない気がして、安寿は華鶴の車の助手席に座った。

 鎌倉の古道の趣を残した切り通しを通った。今にも崩れてきそうな岩を削った道だ。車体を擦ってしまいそうなほど道が狭いというのに、相変わらず華鶴の運転は手荒い。安寿は胸がはらはらし通しだった。奥まったひっそりとした森の中に建つ黒川邸に到着すると、心の底から驚嘆して安寿は立ちすくんだ。そこは、まったく想像だにできないほどに、安寿の常識をはるかに超越したとてつもなく大きな屋敷だった。

 (あのひと、こんなところに住んでいるの! それに、ここって、華鶴さんがお育ちになられたお屋敷なんだ)

 腰の曲がった年老いた執事が出迎えた。同じ執事の職についていても、心優しい伊藤とはまったく印象が違う。遠い昔にどこかで感情というものを落としてしまったかのような空虚な目をしている。

 黒川家の古参の執事は、華鶴に目を合わさずに淡々と言った。

 「華鶴お嬢さま、おかえりなさいませ。当主がお待ちかねでございます」

 冷笑を浮かべた華鶴は安寿の肩を抱いて言った。

 「安寿さん、可笑しいでしょ。ここでは、いまだに私は『お嬢さま』なのよ」

 気が遠くなるくらいに長々とした廊下を歩いて行く。華鶴の後ろを安寿はついて行った。時間と空間を認識する感覚が麻痺していくような気持ち悪さが襲ってくる。今、自分がいる場所がどこなのか、まったくわからない。安寿は航志朗から贈られたネイビーのワンピースの胸元に手を置いた。そして、ワンピースの下につけたローマングラスのペンダントの感触に集中しようとした。

 彫刻作品のように整然と設えられた庭木が立ち並ぶ広い中庭に面した縁側に、着物姿の黒川があぐらをかいて座っているのが目に入った。ある程度は覚悟していたにもかかわらず、安寿の胸の鼓動が激しく打ち始めた。そのままの姿勢で、黒川は大学の講義の時とは明らかに違う柔らかい声をふたりにかけた。

 「ようこそ、華鶴おばさま。それから、安寿さん」

 その場で立ち止まり、無言で安寿はお辞儀をした。

 うつむきながら曲がった腰をさらに曲げて執事が言った。

 「華鶴お嬢さま。ご依頼されたお品物は、こちらにご用意させていただきました」

 華鶴はうなずくと、黒川の背後の部屋に入って姿が見えなくなった。

 黙ったままで黒川は安寿を見つめた。安寿は黒川の抱いている感情が全然わからない。ただ、大学で遠目に見る黒川とはまったくの別人のように感じる。

 (今日のこのひと、生気がない。まるで何かの抜け殻みたい)

 やがて、部屋から出て来た華鶴が、離れて廊下に立ったままの安寿に手招きした。

 「安寿さん、いらっしゃい。あなたに見せたいものがあるの」

 恐る恐る安寿は黒川の背後を通って、その部屋に入った。安寿は息を呑んだ。そこは、部屋ではなかった。真っ白な襖に囲まれた大きな広間だった。その中に堂々と置かれた鳥居の形をした大名衣桁(だいみょういこう)に、赤紅色の振袖が掛けられていた。華鶴は振袖の豪奢な刺繍に細い指を這わせながら言った。

 「この振袖、来年の春の安寿さんの二十歳のお祝いにあなたに贈るわ。私のお下がりでよろしかったら。とはいっても、私、一度もこの振袖に袖を通したことがないのよ。きっと、あの世でお母さまがお喜びになられていることでしょう。孫のお嫁さんにやっと着ていただけるのだから」

 華鶴は振袖を衣桁から手に取ると、何も言わずに安寿に掛けた。その予想外の重さに安寿の肩が少し揺れた。

 「やっぱり思った通りね。この振袖、あなたによく似合うわ。……そうだわ! 宗嗣さんの新作は、この振袖姿の安寿さんに決まりね」

 「なるほど。宗嗣おじさまの新作のご衣装ですか。一千五百万円超えのお着物をお召しになられた安寿さんの絵には、いかほどのプライスがつくのでしょうね。それは楽しみだな」

 顎に手をかけた黒川が意味ありげに微笑んだ。その言葉に振袖に触れようとした安寿はあわてて手を引いた。ばつが悪い顔をして安寿は華鶴の顔を見た。華鶴はさも愉しそうに口に手を当てて低い声で笑った。

 安寿は広間の中を見回した。豪華絢爛そのものの真っ赤な振袖よりも、この空間を取り囲んだ真っ白い襖がどうしても気になった。

 (なんて空っぽな場所なんだろう。こんな空間で長い時間を過ごして、あのひと、虚しい気持ちにならないのかな)

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