今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第6章 ニースにて
 航志朗はニースに向かって飛び立った。パリ経由の便が満席で取れなかったため、いったんフィンランドへ飛び、ヘルシンキ経由でニースに入った。 
 
 眼下には初夏の若々しくきらめく陽光に照らされて、まばゆいばかりに輝く真っ青な地中海が見える。サングラスを外して目を細めた航志朗は、この紫がかった深いブルーを覚えていると思った。航志朗が六歳の時に一度だけ、父に連れられてこの地を訪れたことがあるのだ。今から十九年前、岸は自らの作品を顧客の手元に直接届けるために息子を同伴してニースを訪問した。

 (それにしても、なんて美しい海なんだ。彼女がこの光景を見たら、どんなふうに絵に描くのだろう)と思いながら、航志朗は隣に置いたアタッシェケースに目を落とした。そして、今、そこに座っている安寿の姿を想像した。安寿は恥ずかしそうに航志朗に向かって微笑んでいる。手を伸ばして航志朗は安寿を抱き寄せようとしたが、もちろん手ごたえはない。

 (今、彼女との距離はずいぶん離れているんだな……)

 「ムッシュ・キシ。申しわけないのですが、しばらく車が揺れます。どうぞお気をつけください」
 
 不意に目の前の助手席に座った褐色の肌の男にフランス語で声をかけられて、航志朗は我に返った。

 今、航志朗は顧客が用意した車に乗って、コート・ダジュール空港から顧客の邸宅に向かっている。その邸宅は地中海を見下ろす高台に構えられている。航志朗を乗せた車はゆるやかな坂道を低速で上っていく。やがて、古代ギリシャの彫刻のような巨大な白い門が見えてきた。門を通るとそこは顧客の広大な私有地だ。

 その顧客の名前は、ジャン=シトー・ドゥ・デュボア。フランス貴族の出身で、七十代の知る人ぞ知る美術品コレクターだ。デュボアはリーディング・コレクターとしてもひそかに知られていて、無名の画家の絵画であっても彼にひとたび買い上げられると、その直後からオークション落札額が急上昇する。

 デュボアは都会から離れた土地で、世界中から蒐集した美術品を愛玩しながら優雅に暮らしている。岸が二十代の頃、デュボアは岸の写実絵画の才能を見出し、その人物画を高額で購入した。

 白い門を入ってからしばらく森の中を走り、デュボアの邸宅のエントランスに到着した。邸宅というよりは、まさに(シャトー)である。航志朗は普段はほとんど着ないスーツを着ている。ダークグレーのイギリス製だ。航志朗はゆるめていたネイビーのネクタイを締め直した。車の助手席に座っていたデュボア家の若い執事が先に降り、後部座席のドアを開けた。航志朗は運転手に礼を言って車を降りた。若い執事はノアと名乗った。

 航志朗はノアに案内されてデュボア邸に入った。この邸宅に招待されるのはアート業界では非常に稀なことだ。だが、航志朗は緊張を感じなかった。むしろ再訪に懐かしさを覚えていた。邸宅の内部は、さながら美術館のようだ。古今東西のさまざまな美術品が飾られているが、航志朗の目にはデュボアの一貫性のある美意識が見えてくる。それも尋常ではないレベルの崇高な美意識だ。航志朗はそれを心の底から愉快に思った。
 
 明るい陽光が降り注ぐ大広間に通された。柔らかいウェーブがかかった白髪の男が、親しみのある笑顔で両手を広げて航志朗を迎えた。ジャン=シトー・ドゥ・デュボアだ。デュボアは真っ白なシルクのシャツを着ていて、飄々とした様子で立っている。顔にはしみがひとつもなく年齢をまったく感じさせない。白髪でなかったら、五十代にだって見えるだろう。城の主にふさわしい高貴なたたずまいだ。ふたりは抱擁して握手を交わした。

 「コウシロウ、大きくなったね」

 デュボアは航志朗の肩を親しげに抱いて目を細めた。「前に会った時は、あの子くらいの歳だったかな」と言って、大きな窓のそばの陽だまりで熱心にカラフルなブロックを組み立てて遊んでいる金髪の男の子に目をやった。男の子は航志朗に気づき、ちらっと航志朗を見た。

 「ムッシュ・デュボア、お久しぶりです。再訪のご招待を心から感謝いたします」

 「美しいフランス語だ、コウシロウ。ご両親はお元気にしているかな?」

 「はい。おかげさまで元気にしています。お心遣いをいただきましてありがとうございます。さっそくですが、キシの作品をお持ちいたしました。お目通しをお願いいたします」

 目を伏せた航志朗はひざまずき、執事にうながされた大理石のテーブルの上でアタッシェケースを開けた。そして、白手袋をはめてから黄金布に包まれた額とスケッチブックを取り出して、デュボアに献上しようとした。

 その時だった。航志朗は自分の身体を右肩から左胸にかけて切り刻まれるような想定外の痛みに襲われた。しかし、航志朗はそれを瞬時に強靭な精神力で押さえつけ、おくびにも出さずに岸の絵を顧客に冷静に手渡した。

 眉をひそめたデュボアは航志朗を一瞥してから絵を手に取り目を落とすと、一気にデュボアの瞳孔が全開した。その急激にわきあがった興奮にデュボアの頬が紅潮し、歓喜に貫かれた吐息の音が航志朗の耳に入ってきた。

 「素晴らしい! 素晴らしいよ、コウシロウ! 確かに受け取ったよ。しばらくの間、彼女(・・)と二人きりにさせてもらおう。それから今夜はここに泊っていきなさい。君とゆっくり話がしたい。それに君も私に個人的な話があると見える」

 航志朗は先程の痛みの余韻が残る身体を持て余しつつも、淡々と礼を述べた。

 「ムッシュ・デュボア、お心遣いに感謝いたします。ありがとうございます」

 「そうだ、コウシロウ。滞在中に息子の遊び相手になってもらえないかな」

 (……息子?)

 航志朗は窓際にいる男の子を見た。

 「承知いたしました。ご子息のお名前は?」

 「ロマンだ」

 デュボアは寵愛する女を抱き上げるような手つきで額とスケッチブックを抱えて、大広間を出て行った。その後ろ姿を吐き気をもよおすくらいの苦々しい思いで見送った航志朗は、呼吸を整えてから怪訝そうな顔をしたロマンに無言で近づいた。航志朗は色とりどりのブロックから白いブロックを選び出し、慣れた手つきで手早く組み立てて、この邸宅を模した城を作った。ロマンは心の底から感心した様子で目を輝かせて航志朗の顔を見た。航志朗は得意気にロマンに笑いかけた。

 「おじさま、すごい!」

 ロマンがボーイソプラノの甲高い歌声のような声で叫んだ。 

 (おじさま……)

 航志朗は初めて子どもからそう呼ばれて、軽くショックを味わった。

 「私も子どもの頃、このブロックでよく遊びました」

 「おじさま、もっと、もっと、作って!」

 この後、航志朗は次から次へとリクエストしてくるロマンに、ピアノのレッスンの時間だとアジア系のナニーが呼びに来るまで付き合うことになった。子ども慣れしていない航志朗は、へとへとに疲れた。

 (やれやれ、やっと子守りが終わった。それにしても、ずいぶん若いナニーだったな。十代か? 彼女と同じくらいの年頃なんじゃないか)

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