今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
それから、安寿は、ぽつりぽつりと子どもの頃の思い出話をし始めた。
安寿の祖父母が相次いで亡くなった後、安寿と恵は郊外の一軒家から都内の団地に引っ越した。恵の通勤時間を短縮するためだ。それに、恵は姉と両親が去った家で姪と二人きりで暮らすことが耐えられなかったのだ。恵は渡辺にさえもひと言も相談せずに、生まれ育った家と土地を売却した。当時の恵は、出版社での多忙な仕事と家庭生活との時間のやりくりに苦心した。まだ小学生だった安寿のために早く帰宅しなければと、昼食の休憩時間を削ってまで目まぐるしく働いた。
安寿は前を向いたままで、まるで他人事のように言った。
「あの頃の恵ちゃんは、毎日ぴりぴりと神経をとがらせていて、本当に疲れた顔をしていたんです。私の前では常に優しい叔母でいてくれましたが、とても無理をしているって、私はわかっていました……」
小学四年生になった春の十歳を迎える誕生日の直前に、安寿は区立小学校に転校した。まず安寿が驚いたのが、校庭に土がなくビリジアンの人口樹脂で固められていたことだった。こじんまりとした敷地内に押し込められたその小学校の建物は、とても窮屈な感じがした。すぐに転校生に心優しい女子グループに入れてもらえたが、ここでも親しい友人はできなかった。だが、安寿にとってそれはすでにわかりきったことだった。どこに行っても心を開ける他人はいない。きっと永遠に。ずっとそう思ってきた。
(初めて会った時、俺の前であんなに彼女が泣いたのは、そんなにも特別なことだったのか。そして、今も。それって、彼女の心のすべてを俺に許しているってことだよな)
航志朗のなかに安寿への愛おしい気持ちがあふれてくる。航志朗は目を潤ませて思った。
(安寿、俺は君のすべてを受け入れるよ。愛する君のすべてを……)
一人でずっと抱え込んできた想いを吐き出すと、少しずつ安寿の気持ちは落ち着いてきた。さらに安寿は続けて言った。
「転校してから一年経った小学五年生の春の写生大会の時、クラスのみんなで学校の近くを流れている川辺の風景を描いたんです。その絵が、私をここに導いてくれました」
航志朗は不可思議な表情を浮かべた。
「……ここに導いてくれた?」
安寿は航志朗を見て、はっきりとした声で言った。
「はい。私を、清華美術大学に」
赤信号でブレーキを踏んだ航志朗は、隣にいる安寿を見つめた。安寿は遠い目をして耳をすましているかのように斜め上を見上げている。航志朗は安寿の視線の先を目で追ったが、そこは暗闇が広がっているだけだった。
やがて、安寿の耳の奥に子どもたちの甲高い声が聞こえてきた。
「安寿ちゃんの絵、すごーい!」
「本当だ! 白戸さんの絵、超スゲー!」
同じクラスの子どもたちがコンクリートで固められた川べりに座った安寿を囲んで口ぐちに感嘆した。絵を描き終えてぼんやりとした安寿の耳には何も聞こえていなかった。大騒ぎしている子どもたちに気づいて、担任教諭の吉川が安寿に急いで近寄った。吉川は安寿の画板の上の絵を見て圧倒された。二度の産休を経て教員生活を四十年近く続けてきたが、こんなにも衝撃を受けたのは初めてのことだった。
「し、白戸さん! あなたには、この風景がそんなふうに見えているの……」
東京では珍しくもないありふれた川辺の風景だ。無機質なコンクリート製の遊歩道になっている河岸には、人工的に間隔を開けて新緑の葉が妙に生えそろった樹々が植えられている。その下の煉瓦で囲まれた花壇には、春に咲く花々が規則的に並んでカラフルに咲いている。
安寿の絵は、すべてがモノトーンで描かれていた。まったく色彩がない。ある意味、空虚だ。だが、その風景の本質をとらえていると吉川は心の底から感じた。
安寿の絵を眺めていると、急に吉川は胸が張り裂けそうになった。ずっと前に亡くなった母と手をつないで、まだ舗装されていなかったこの川辺を歩いた幼い日々のことを思い出したからだ。土の地面だった昔の川辺には、季節ごとに可憐な野花が自然に咲いていた。吉川が花を摘もうとすると母に厳しく止められた。ふくれっつらをした吉川に母が言った。
「ここに咲く花々は、亡くなった方々にたむけられたものなのよ」
そして、吉川は思い出した。よく母が子どもだった吉川に言っていた言葉を。
「お母さんね、川の流れを見るのが好きなの。だって、川ってすべてを流してくれるでしょう。悲しい想いも、つらかった思い出もね……」
多くを語らなかったが、東京の下町で吉川の母は東京大空襲を経験していた。
児童の美術教育に造詣が深かった吉川は、ある国際的な小中学生のための絵画コンクールに安寿の風景画を出品した。二学期になって、安寿は吉川から職員室に呼び出された。昼休みに安寿が行くと、あふれんばかりの笑顔で吉川は安寿の手を握って叫んだ。
「白戸さん! あなたの絵、入選したわよ!」
安寿の祖父母が相次いで亡くなった後、安寿と恵は郊外の一軒家から都内の団地に引っ越した。恵の通勤時間を短縮するためだ。それに、恵は姉と両親が去った家で姪と二人きりで暮らすことが耐えられなかったのだ。恵は渡辺にさえもひと言も相談せずに、生まれ育った家と土地を売却した。当時の恵は、出版社での多忙な仕事と家庭生活との時間のやりくりに苦心した。まだ小学生だった安寿のために早く帰宅しなければと、昼食の休憩時間を削ってまで目まぐるしく働いた。
安寿は前を向いたままで、まるで他人事のように言った。
「あの頃の恵ちゃんは、毎日ぴりぴりと神経をとがらせていて、本当に疲れた顔をしていたんです。私の前では常に優しい叔母でいてくれましたが、とても無理をしているって、私はわかっていました……」
小学四年生になった春の十歳を迎える誕生日の直前に、安寿は区立小学校に転校した。まず安寿が驚いたのが、校庭に土がなくビリジアンの人口樹脂で固められていたことだった。こじんまりとした敷地内に押し込められたその小学校の建物は、とても窮屈な感じがした。すぐに転校生に心優しい女子グループに入れてもらえたが、ここでも親しい友人はできなかった。だが、安寿にとってそれはすでにわかりきったことだった。どこに行っても心を開ける他人はいない。きっと永遠に。ずっとそう思ってきた。
(初めて会った時、俺の前であんなに彼女が泣いたのは、そんなにも特別なことだったのか。そして、今も。それって、彼女の心のすべてを俺に許しているってことだよな)
航志朗のなかに安寿への愛おしい気持ちがあふれてくる。航志朗は目を潤ませて思った。
(安寿、俺は君のすべてを受け入れるよ。愛する君のすべてを……)
一人でずっと抱え込んできた想いを吐き出すと、少しずつ安寿の気持ちは落ち着いてきた。さらに安寿は続けて言った。
「転校してから一年経った小学五年生の春の写生大会の時、クラスのみんなで学校の近くを流れている川辺の風景を描いたんです。その絵が、私をここに導いてくれました」
航志朗は不可思議な表情を浮かべた。
「……ここに導いてくれた?」
安寿は航志朗を見て、はっきりとした声で言った。
「はい。私を、清華美術大学に」
赤信号でブレーキを踏んだ航志朗は、隣にいる安寿を見つめた。安寿は遠い目をして耳をすましているかのように斜め上を見上げている。航志朗は安寿の視線の先を目で追ったが、そこは暗闇が広がっているだけだった。
やがて、安寿の耳の奥に子どもたちの甲高い声が聞こえてきた。
「安寿ちゃんの絵、すごーい!」
「本当だ! 白戸さんの絵、超スゲー!」
同じクラスの子どもたちがコンクリートで固められた川べりに座った安寿を囲んで口ぐちに感嘆した。絵を描き終えてぼんやりとした安寿の耳には何も聞こえていなかった。大騒ぎしている子どもたちに気づいて、担任教諭の吉川が安寿に急いで近寄った。吉川は安寿の画板の上の絵を見て圧倒された。二度の産休を経て教員生活を四十年近く続けてきたが、こんなにも衝撃を受けたのは初めてのことだった。
「し、白戸さん! あなたには、この風景がそんなふうに見えているの……」
東京では珍しくもないありふれた川辺の風景だ。無機質なコンクリート製の遊歩道になっている河岸には、人工的に間隔を開けて新緑の葉が妙に生えそろった樹々が植えられている。その下の煉瓦で囲まれた花壇には、春に咲く花々が規則的に並んでカラフルに咲いている。
安寿の絵は、すべてがモノトーンで描かれていた。まったく色彩がない。ある意味、空虚だ。だが、その風景の本質をとらえていると吉川は心の底から感じた。
安寿の絵を眺めていると、急に吉川は胸が張り裂けそうになった。ずっと前に亡くなった母と手をつないで、まだ舗装されていなかったこの川辺を歩いた幼い日々のことを思い出したからだ。土の地面だった昔の川辺には、季節ごとに可憐な野花が自然に咲いていた。吉川が花を摘もうとすると母に厳しく止められた。ふくれっつらをした吉川に母が言った。
「ここに咲く花々は、亡くなった方々にたむけられたものなのよ」
そして、吉川は思い出した。よく母が子どもだった吉川に言っていた言葉を。
「お母さんね、川の流れを見るのが好きなの。だって、川ってすべてを流してくれるでしょう。悲しい想いも、つらかった思い出もね……」
多くを語らなかったが、東京の下町で吉川の母は東京大空襲を経験していた。
児童の美術教育に造詣が深かった吉川は、ある国際的な小中学生のための絵画コンクールに安寿の風景画を出品した。二学期になって、安寿は吉川から職員室に呼び出された。昼休みに安寿が行くと、あふれんばかりの笑顔で吉川は安寿の手を握って叫んだ。
「白戸さん! あなたの絵、入選したわよ!」