今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その後、区立中学に入学した安寿は美術部に入部した。その美術部はどちらかというと物静かな性格の生徒が集っていて、おのおので黙々と絵を描いていた。美術室の隣は音楽室で吹奏楽部が楽器を奏でていた。そのお世辞にも上手な演奏だとはいえないやかましい音を聞きながら、安寿は画筆を走らせた。入部してすぐに安寿は美術教師からも部員たちからも一目置かれるようになった。安寿の絵は決して上手な絵ではない。だが、熱量が凄まじい絵なのだ。部員たちで同じ静物を描いていても同じ風景を描いていても、安寿の絵は突出していた。そして、当の本人はそれにまったく気づいていなかった。

 「結局、私には親しい友だちができませんでした。小学校や中学校のクラスでも、美術部でも」

 そう言うと、安寿はつらそうに目を伏せた。

 すかさず航志朗が言った。

 「でも、今の君には、莉子ちゃんと大翔くん、それに、星野くんがいる」

 しっかりと安寿はうなずいた。期待を込めて航志朗は安寿の次の言葉を待ったが、なかなかそれは出てこない。待ちきれずに航志朗は自分から言い出した。

 「それに今の君には、この俺がいるだろ……」

 やっと乾いた安寿の頬にまた大粒の涙が伝った。安寿は運転している航志朗に抱きついた。あわてた航志朗は目に入ったこうこうと明るくライトアップされた住宅展示場の駐車場に車を停めると、すぐにシートベルトを外して安寿を抱きしめた。ふたりが抱き合って顔を寄せようとすると、住宅展示場のスタッフがやって来て言った。

 「いらっしゃいませ。ご新居をお探しですか?」

 安寿と航志朗は身体を離して首を振った。スタッフは困惑した顔を浮かべたが、おそらく本日最後の客になるふたりにパンフレットがたくさん入った生成りのコットンの手提げ袋を車の窓越しに強引に手渡した。

 「せっかくですので、こちらをお持ちくださいませ。ご来場のお土産にインポートのチョコレートも入っております」

 ふたりは顔を見合わせた。

 航志朗は車を出した。安寿は手提げ袋からチョコレートの箱を取り出すと、金色の包装紙を開いてひとつぶ航志朗の口に入れて自分も食べた。そして、パンフレットを取り出してぱらぱらとめくった。

 「いろいろな戸建ての注文住宅があるんですね」

 ちらっと横目で安寿をうかがってから、航志朗は穏やかな声で尋ねた。

 「安寿、君はどんな家に住みたい? あのマンションは、ファミリー向けじゃないからな」

 少し頬を赤く染めて安寿は小声で言った。

 「私、小さなおうちがいいです」

 「ふーん、大きな家じゃなくていいのか」

 黙って安寿はうなずいた。

 「はい。小さなおうちのなかに小さなテーブルと椅子を置いて、ずっと絵を描いていられれば、私は幸せですから」

 どうしても「あなたと一緒に」と安寿は言えなかった。

 だが、ひそかに安寿は心のなかで思っていた。

 (どんな家でもいい。ずっと、航志朗さんと一緒にいられるのなら)

 安寿の秘めた想いを知らずに、わざと航志朗はからかうように言った。

 「安寿、大きなベッドはいらないのか?」

 そう言ってから、航志朗は流し目でにやっと笑った。

 「航志朗さんったら!」

 一瞬、仏頂面になった安寿は赤くなりながらうつむいて言った。

 「私、航志朗さんのマンションが好きなんです。だから、新しい家はいらないです」

 もうすぐそのマンションに到着する。少し安寿に元気が戻ってきたような気がして、航志朗はほっと肩を落としてから尋ねた。

 「安寿、誕生日プレゼントはどうする? それに今夜の夕食も」

 「スーパーマーケットに寄って、一緒に何かつくりましょう」

 「誕生日プレゼントは?」

 「もう、とっくにいただいていますよ、航志朗さん」

 「ん? 俺は、何も君にプレゼントしていない」

 航志朗は首をひねった。

 安寿は小さい声で恥ずかしそうに言った。

 「いただいています。航志朗さんと、今、一緒にいるこの時間と、この空間を」

 くすっと笑って、航志朗は肩を上げた。

 「安寿、君は物理学者みたいなことを言うんだな」

 やっと安寿は心から笑顔になった。胸を詰まらせながら航志朗は安寿を見つめた。

< 254 / 471 >

この作品をシェア

pagetop