今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 すでに午後十一時を回っている。パジャマ姿の航志朗は安寿が風呂から出て来るのをベッドの上で横になって待っていた。一緒に風呂に入ろうと誘った航志朗に申しわけなさそうに安寿が言った。

 「ごめんなさい。今夜は、一人でゆっくり入りたいんです」

 腕を組んで航志朗は思った。

 (まあ、そういう時もあるよな。ものすごく残念だったけど)

 その時、バスタブに浸かっていた安寿は、すみずみまで自分の身体を見つめていた。大人になった自分の身体を。そして、膝を抱えて安寿は思った。

 (私は、今日、本当に一人前の大人になったんだ。ひとりで生きていけるようになるためには、私、いったいどうしたらいいんだろう……)

 そして、安寿は左手の薬指の結婚指輪をじっと見つめた。
 
 やっと、安寿がベッドルームにやって来た。航志朗はすぐに起き上がって、ベッドの上で両腕を広げて安寿を迎えた。

 「おいで、安寿」

 安寿は航志朗の腕の中にすっぽりと収まった。そして、身体と心を優しく寄せてふたりは抱き合う。安寿に覆いかぶさった航志朗は、その琥珀色の瞳に安寿の姿を映してささやいた。

 「安寿、君を愛している。……心から愛している」

 シーツの上に仰向けになった安寿は、航志朗を見上げて微笑んだ。そして、胸のなかでひそかに思った。

 (航志朗さん、今、私も心からあなたを愛しています……)

 その瞬間、安寿は胸の奥がひどく痛くなった。

 (でも、私のこの想いは、航志朗さんに伝えられない。絶対に言ってはだめ。彼のためにならないから)

 その胸に秘めた想いに突き動かされて、安寿は両腕を伸ばして航志朗の身体にしがみついた。航志朗の背中は汗ばんでしっとりと湿っている。航志朗の熱を帯びた肌に顔をうずめて、その身も心もとろけるような匂いと温もりに胸をしめつけられる。いつかこの関係は終わる。それは始めから決まっていた契約だ。だんだん航志朗の動きが激しくなってくる。ふたりの呼吸の間隔も短くなっていく。やがて、身体じゅうを震わせながら、ふたりはきつく互いの身体に抱きついた。航志朗は琥珀色の瞳を穏やかに輝かせながら、安寿を見つめてささやいた。

 「これがこんなにも気持ちのいいことだなんて知らなかったよ。誰とでもこんなふうにできるわけじゃない。君だけだ。君だけだよ、安寿」

 安寿は微笑んだ。だが、身体じゅうを満たす快楽に気持ちがたかぶるのは一瞬だ。すぐに真っ暗な闇の底に突き落とされる。安寿は心の奥底の哀しみに溺れそうになる。この静まり返ったひとときに、いつも胸の内で安寿は思う。

 (あと何回、彼とこうしていられるのだろう。もしかしたら、今夜が最後かもしれない)

 安寿は目を潤ませて航志朗を見つめた。航志朗は安寿の想いを知らない。嬉しそうな微笑みを浮かべて、また航志朗は唇を深く重ねてくる。目を閉じた安寿は、今のこの瞬間を永遠に記憶にとどめたいと祈るような気持ちで思う。航志朗はしっかりと腕の中に安寿を抱きしめた。その航志朗の温もりは、確かにいっときの安心感を安寿に与えてくれる。

 (今が最後でもいい。私は彼を愛している)

 そして、安寿の心に、航志朗への感謝の想いがとめどなくあふれてくる。

 (私、彼と別れる時に、今までの感謝の気持ちを込めて何かお礼をしたい。今はどうしたらいいのか、全然わからないけれど)

 ふと気がつくと、航志朗は目を閉じて安らかな眠りに落ちていた。航志朗の無垢な寝顔は、本当に小さな男の子のようだ。思わず微笑んだ安寿は航志朗の頬にキスした。そして、毛布を広げて航志朗にそっと掛けた。安寿はカーペットに落ちていた航志朗のスマートフォンを手に取って時刻を見た。とっくに二十歳の誕生日は過ぎ去っていた。深く安寿はため息をついた。手を伸ばして安寿は脱ぎ捨てたパジャマを引き寄せたが、そのまま毛布の中にもぐりこんで航志朗に身を寄せた。汗がひいた航志朗の身体は冷たい。心を揺さぶられながら安寿は航志朗に密着した。そして、安寿は梁の柔らかい曲線を見上げながら人知れずつぶやいた。

 「私の絵が、航志朗さんの役に立てたらいいのに……」

 






 







 







 





 

 











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