今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第3節
次の日の朝、安寿は航志朗に清華美術大学の校門の前まで車で送ってもらった。
「安寿、今度の日曜日にまた迎えに行くよ。二回目の結婚記念日を一緒に過ごそう」
「はい。待っています。もちろん航志朗さんのお誕生日もお祝いしましょうね」
ふたりはどちらからともなく唇を重ねた。胸をしめつけられながら安寿は車を降りた。寂しげな微笑を浮かべた航志朗は手を軽く上げてから車を出した。車が見えなくなるまで見送ってから安寿が校門に入ろうとすると、目の前にダークグレーの高級車が停まった。運転席に座った男が車から降りて後部座席のドアを開けた。安寿は顔をしかめた。安寿の目の前に黒川が降りて来た。いつもながら黒川は着物姿だ。すぐに黒川は安寿に気づいて笑いかけた。身を硬くしながら安寿はお辞儀をした。
「おはようございます。……黒川教授」
今春、黒川は准教授から教授に昇格した。異例のスピード出世だ。苦笑いして黒川が言った。
「ねえ、安寿さん。君には、そんなに堅苦しく呼ばれたくはないんだけどな」
安寿は無言のままだ。安寿が大教室がある校舎に向かって歩き出すと、黒川も並んで歩く。おどけた口調で黒川が言った。
「安寿さん、ぜひとも僕のことを名前で呼んでほしいな、『皓貴さん』と。どう?」
何も答えずに安寿は仏頂面をして歩調を早めた。やすやすと黒川は安寿について行く。
「あのさあ、安寿さん。僕にそんな冷たい態度でいいのかな。僕は、君の愛する男が心の底から欲してやまないものの、まごうことなき所有者なのにさ」
思わず安寿は足を止めた。眉間にしわを寄せて黒川の顔を見上げる。
「……『心の底から欲してやまないもの』?」
黒川は薄く笑った。
「君は、航志朗くんが欲しいものを知らないの? 彼の妻なのに」
すぐに安寿は思い出した。どうしてそんなにも忙しく働くのかと航志朗に思いきって訊いた時のことを。安寿はつぶやいた。
「……岸家の裏の森」
「そう。君、知っているんだね」
くすくすと黒川は肩を震わせて笑い出した。
「昨年の春、突然、久方ぶりに彼がうちにやって来て、やぶから棒にこう尋ねたんだ。『あの森をいくらで売ってもらえるか?』ってさ」
顔色を変えた安寿の目を見ながら、黒川は続けた。
「僕は即答したよ。正真正銘の適正価格をね……」
たまらず安寿は即座に尋ねた。
「あ、あの、おいくらなんですか?」
素っ気なく黒川は言った。
「二千億」
「に、二千億円……」
安寿は目の前の黒川の姿がかすんで見えた。めまいがするように頭のなかがくらくらしてきた。安寿にはまったく想像だにできない、とてつもない金額だ。
「航志朗くんてさ、本当に哀れだよね。いくらグローバルに活躍する有能なビジネスパーソンの彼でも、簡単に稼げる額じゃない。一生を棒にふるって、ひたすら身を粉にして働かないとね。その前に倒れちゃうんじゃないの、働き過ぎで」
安寿はびくっと身体を震わせた。安寿の顔は血の気が引いて真っ白になっている。そんな安寿の姿を黒川は愉しそうに見下ろした。
「だから、僕、航志朗くんにご提案したんだよ。同じ血が流れる可愛い従弟のためにさ。『あの森と君の妻を交換しようか』って。そうしたら、彼さあ……」
安寿は立っていられずに、その場にしゃがみ込んで地面に手をついた。片方の口角を上げた黒川は安寿をさも面白そうに見下ろした。
「おやおや、大丈夫? 安寿さん」
その時だった。「安寿ちゃーん!」と悲鳴のような大声が背後から聞こえた。莉子の声だ。安寿が振り返ると莉子の隣には大翔もいる。莉子と大翔は安寿に向かって走り寄った。思いきり莉子は黒川をにらみつけると、しゃがんで安寿の背中をさすった。
「安寿ちゃん……」
両肩を上げた黒川は着物を翻してその場を去って行った。
莉子は不安そうなまなざしで大翔を見つめた。大翔はバックパックに入っていたミネラルウォーターのボトルのふたを開けて莉子に手渡した。莉子は安寿の背中を支えて、安寿に水を飲ませた。
やっと、安寿は口を開けて礼を言った。
「……ありがとう。もうすぐ一限が始まるね、行こうか」
何事もなかったかのような落ち着いた声だった。莉子と大翔は影を落とした顔を見合わせた。
昨年に引き続いて月曜日の一限は、黒川の『日本美術史概論Ⅱ』だ。再び安寿の視界の中に黒川が現れた。平然と黒川は講義を始めたが、まったく黒川が言っていることが頭に入ってこない。一度も耳にしたことがない遠い異国の言葉を話しているかのようだ。どうしようもなく胸の奥が騒めいて、目を閉じて安寿は何回も深呼吸をした。隣に座っている莉子が心配そうに安寿を見つめた。
(あの森と私を交換しようってあのひとに持ちかけられて、航志朗さんはなんて答えたんだろう)
目を開けて安寿は大教室の窓の外を見た。薄曇りの空は重たく濁っている。
(彼のためならどうなっても私は構わない。でも、「交換する」って、どういう意味なの)
ぼんやりと安寿は壇上の黒川を見た。いきなり黒川と目が合って、黒川の肢体に焦点が合う。誘うように黒川が笑いかけてきたように感じて、安寿は胸をどきっとさせた。あわてて安寿は視線を外して下を向いた。
「安寿、今度の日曜日にまた迎えに行くよ。二回目の結婚記念日を一緒に過ごそう」
「はい。待っています。もちろん航志朗さんのお誕生日もお祝いしましょうね」
ふたりはどちらからともなく唇を重ねた。胸をしめつけられながら安寿は車を降りた。寂しげな微笑を浮かべた航志朗は手を軽く上げてから車を出した。車が見えなくなるまで見送ってから安寿が校門に入ろうとすると、目の前にダークグレーの高級車が停まった。運転席に座った男が車から降りて後部座席のドアを開けた。安寿は顔をしかめた。安寿の目の前に黒川が降りて来た。いつもながら黒川は着物姿だ。すぐに黒川は安寿に気づいて笑いかけた。身を硬くしながら安寿はお辞儀をした。
「おはようございます。……黒川教授」
今春、黒川は准教授から教授に昇格した。異例のスピード出世だ。苦笑いして黒川が言った。
「ねえ、安寿さん。君には、そんなに堅苦しく呼ばれたくはないんだけどな」
安寿は無言のままだ。安寿が大教室がある校舎に向かって歩き出すと、黒川も並んで歩く。おどけた口調で黒川が言った。
「安寿さん、ぜひとも僕のことを名前で呼んでほしいな、『皓貴さん』と。どう?」
何も答えずに安寿は仏頂面をして歩調を早めた。やすやすと黒川は安寿について行く。
「あのさあ、安寿さん。僕にそんな冷たい態度でいいのかな。僕は、君の愛する男が心の底から欲してやまないものの、まごうことなき所有者なのにさ」
思わず安寿は足を止めた。眉間にしわを寄せて黒川の顔を見上げる。
「……『心の底から欲してやまないもの』?」
黒川は薄く笑った。
「君は、航志朗くんが欲しいものを知らないの? 彼の妻なのに」
すぐに安寿は思い出した。どうしてそんなにも忙しく働くのかと航志朗に思いきって訊いた時のことを。安寿はつぶやいた。
「……岸家の裏の森」
「そう。君、知っているんだね」
くすくすと黒川は肩を震わせて笑い出した。
「昨年の春、突然、久方ぶりに彼がうちにやって来て、やぶから棒にこう尋ねたんだ。『あの森をいくらで売ってもらえるか?』ってさ」
顔色を変えた安寿の目を見ながら、黒川は続けた。
「僕は即答したよ。正真正銘の適正価格をね……」
たまらず安寿は即座に尋ねた。
「あ、あの、おいくらなんですか?」
素っ気なく黒川は言った。
「二千億」
「に、二千億円……」
安寿は目の前の黒川の姿がかすんで見えた。めまいがするように頭のなかがくらくらしてきた。安寿にはまったく想像だにできない、とてつもない金額だ。
「航志朗くんてさ、本当に哀れだよね。いくらグローバルに活躍する有能なビジネスパーソンの彼でも、簡単に稼げる額じゃない。一生を棒にふるって、ひたすら身を粉にして働かないとね。その前に倒れちゃうんじゃないの、働き過ぎで」
安寿はびくっと身体を震わせた。安寿の顔は血の気が引いて真っ白になっている。そんな安寿の姿を黒川は愉しそうに見下ろした。
「だから、僕、航志朗くんにご提案したんだよ。同じ血が流れる可愛い従弟のためにさ。『あの森と君の妻を交換しようか』って。そうしたら、彼さあ……」
安寿は立っていられずに、その場にしゃがみ込んで地面に手をついた。片方の口角を上げた黒川は安寿をさも面白そうに見下ろした。
「おやおや、大丈夫? 安寿さん」
その時だった。「安寿ちゃーん!」と悲鳴のような大声が背後から聞こえた。莉子の声だ。安寿が振り返ると莉子の隣には大翔もいる。莉子と大翔は安寿に向かって走り寄った。思いきり莉子は黒川をにらみつけると、しゃがんで安寿の背中をさすった。
「安寿ちゃん……」
両肩を上げた黒川は着物を翻してその場を去って行った。
莉子は不安そうなまなざしで大翔を見つめた。大翔はバックパックに入っていたミネラルウォーターのボトルのふたを開けて莉子に手渡した。莉子は安寿の背中を支えて、安寿に水を飲ませた。
やっと、安寿は口を開けて礼を言った。
「……ありがとう。もうすぐ一限が始まるね、行こうか」
何事もなかったかのような落ち着いた声だった。莉子と大翔は影を落とした顔を見合わせた。
昨年に引き続いて月曜日の一限は、黒川の『日本美術史概論Ⅱ』だ。再び安寿の視界の中に黒川が現れた。平然と黒川は講義を始めたが、まったく黒川が言っていることが頭に入ってこない。一度も耳にしたことがない遠い異国の言葉を話しているかのようだ。どうしようもなく胸の奥が騒めいて、目を閉じて安寿は何回も深呼吸をした。隣に座っている莉子が心配そうに安寿を見つめた。
(あの森と私を交換しようってあのひとに持ちかけられて、航志朗さんはなんて答えたんだろう)
目を開けて安寿は大教室の窓の外を見た。薄曇りの空は重たく濁っている。
(彼のためならどうなっても私は構わない。でも、「交換する」って、どういう意味なの)
ぼんやりと安寿は壇上の黒川を見た。いきなり黒川と目が合って、黒川の肢体に焦点が合う。誘うように黒川が笑いかけてきたように感じて、安寿は胸をどきっとさせた。あわてて安寿は視線を外して下を向いた。