今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿を大学に送った後、航志朗は車を走らせて岸家に向かった。安寿のスーツケースと畳紙(たとうし)に包まれた振袖を運ぶためだ。駐車場に車を停車すると、エントランスから屋敷の中に入った。咲がやって来て振袖を預かった。スーツケースを持ち上げて階段を上り、航志朗は安寿の部屋の中に運んだ。

 窓を開けて、航志朗は安寿のベッドの上に腰掛けた。柔らかい春の風が航志朗の頬を優しくなでる。脳裏に安寿の長い黒髪が風になびく様子を思い浮かべた。満ち足りた穏やかな気持ちになって、航志朗は微笑んだ。

 (子どもの頃、こんな時間がやってくるなんて思いもよらなかった。俺の目の前に、こんなにも心から愛するひとが現れるなんて……)

 ふと航志朗はブックシェルフを見上げた。一番上の棚には、デルフトタイルと天然岩絵具が置かれていた。タイルに描かれたキューピッドは相変わらずユーモラスな姿をしている。思わず航志朗はくすっと笑った。その下の棚には、ラファエル前派の画集とマティスの画集が置かれている。航志朗は立ち上がって、ブックシェルフの前に立った。二冊の画集の隣にはぎっしりと大学の教科書が並んでいる。航志朗はそのタイトルを目で追った。

 「図学、美術解剖学、絵画技法史、絵画材料論、日本美術概論、西洋美術史概論、現代芸術論……」
 
 航志朗は腕を組んでにやっと笑ってつぶやいた。

 「いかにもな美大生のラインナップだな」

 そして、航志朗は気づいた。

 「ん? 教育原理、教育心理学、美術教育法。安寿、教職も履修しているのか? 美術教師にでもなるつもりなのか……」

 航志朗は顔を曇らせた。 

 「あっ」

 思わず航志朗は声をあげた。

 (これって、俺の……)

 その下の段には、古びた子ども向けの図鑑や絵本が並んでいた。航志朗が子どもの頃に夢中になって読んだ本だ。航志朗は棚から引き出して手に取った。

 「『航空機大図鑑』か。懐かしいな」

 ベッドに座って、一ページ、一ページ、ゆっくりと眺める。ふと顔を上げて、航志朗はひとりごとを言った。

 「どうして、まだここにあるんだ。伊藤さんに処分をお願いしたはずなのに」

 突然、あることを思い出して、航志朗は図鑑をベッドの上に置いて立ち上がった。そして、クローゼットの前に立ってはみたものの、航志朗はためらった。

 (ここが子どもの頃の俺の部屋だったとはいっても、今は安寿の部屋だ。勝手にここを開けるのはマナー違反だろ。いくら彼女が俺の妻だとしても)

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