今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 だが、結局のところ、航志朗はクローゼットを開けてしまった。ハンガーに掛けられた安寿の服がきちんと並んでいる。どれも航志朗が見慣れたものだ。その数は多くない。ひと目で大切にしまってあることがわかる。おととし航志朗が贈ったネイビーのワンピースが目に留まった。何回も着て洗濯を繰り返し、少し色褪せてきたような感じがする。

 (来週、彼女に新しいワンピースをプレゼントするか)と航志朗は考えた。

 そして、航志朗はかがんで手を差し入れてクローゼットの奥を探った。すぐそれに手が当たった。

 (やっぱり、まだあった……)

 航志朗の胸の鼓動が早まった。両腕でそれをクローゼットの中から引き出した。

 それは、ふた付きの段ボール製の白い箱だ。白かったのは、航志朗がこの屋敷を去った十五歳の時のことだった。時を経た今は、当然のことだがところどころに染みがついて、全体の色が変色している。その箱の上に両手を置いて、目を閉じた航志朗はゆっくりと深呼吸をした。

 (もしかしたら、俺と安寿は……)

 カーペットの上に座って航志朗はそのふたを開けた。中からは、かつて子どもだった頃の航志朗が描いた絵が出てきた。航志朗は目を伏せて画用紙の束を横に置いた。

 その時、航志朗の耳の奥に懐かしい声が響いた。

 「あら、またずいぶんと楽しそうに絵を描いているのね、航志朗さん。私、あなたの絵が本当に好きよ」

 ふわっと後ろから優しく抱きしめられた。バーベナのレモンのようないい香りがする。温かい手が画筆を持った航志朗の小さな手をそっと握った。航志朗は嬉しそうに振り返って、そのひとの名前を呼んだ。

 「恵真おばあさま!」

 航志朗の祖母は優しく微笑んだ。祖母は航志朗と同じ琥珀色の瞳をしている。美しく、そして、もの哀しい影を落とした瞳だ。いつも祖母はフリルのついたデザインのブラウスを身にまとっていた。ブルネットの面影を残した白髪で細身の祖母はいつもふわふわとしていて、今にもどこか遠くに飛び立ってしまいそうな感じがした。その風情によくわけのわからない不安を感じて、航志朗は祖母の腕をきつくつかんだ。そんな時、いつも祖母は優しく航志朗の頭をなでてくれた。

 真夏のある日、幼い航志朗の悪い予感は的中した。祖母はよく裏の森の池で水浴びをしていた。危ないからと言って祖父に何度も注意されてはいたが、祖母はやめなかった。子どもの頃からの夏の楽しみでもあったのだ。だが、航志朗には絶対に池に入らせなかった。「ここは、女性しか入れない神聖な場所なのよ」と祖母が言っていたことを思い出す。祖母は水浴びをしていた時に心臓麻痺を起こして、突然、航志朗のそばからいなくなった。

 「あった……」

 そう言って、航志朗は箱の底から一枚の絵を取り出した。画用紙の一面になんとも言いようがない色彩が厚く塗り重ねられている。手を触れると絵のなかに引きずり込まれて溺れてしまいそうになる。航志朗は画用紙を裏返した。何か書いてある。震える声で航志朗はつぶやいた。

 「ん、じ、……安寿」

 昨年の夏、北海道で安寿が言っていた言葉を航志朗は頭のなかで反芻した。

 「航志朗さん。私ね、子どもの頃、なかなか自分の名前がひらがなで書けなかったんですよ。ほら、『あ』と『ゆ』って、ちょっと難しいでしょ。だから、その頃の私が書く自分の名前は『んじ』だったんです」

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