今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 自分の腹が重低音で鳴った音を耳にして航志朗は目を開けた。スマートフォンを見ると午後一時を過ぎていた。

 「安寿……」

 隣に安寿はいなかった。やるせない気持ちになって航志朗は思った。
 
 (俺は彼女の幻を見たのか?)

 弱々しく起き上がり肩を落として航志朗は階段を下りた。すると、すぐさま食欲を目覚めさせるいい香りがすることに気づいた。また航志朗の腹が低く鳴った。

 「航志朗さん、お食事にしますか。お腹空いたでしょう?」

 優しく心をなでるような声がする方向を見ると、エプロン姿の安寿が微笑んで立っている。安寿が内側から柔らかく光り輝いているような気がして、思わず航志朗は目を細めた。

 航志朗は安寿に近づいて抱きしめようとしたが、寸止めで両腕を下ろして言った。

 「俺、先にシャワーを浴びてくるよ」

 「ちょっと待ってください」と安寿が言って、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出してグラスに注ぎ、航志朗に手渡した。航志朗はそれを一気に飲み干した。

 「ありがとう、安寿」

 航志朗から空のグラスを受け取って安寿は微笑んだ。

 白いシャツとジーンズ姿の航志朗がフェイスタオルで髪を拭きながらリビングルームに戻って来た。安寿は温め直したスープと炊きたてのご飯をダイニングテーブルに用意した。

 「おいしそうだな。ものすごくお腹空いたよ」

 「どうぞたくさん召しあがってくださいね、航志朗さん」

 椅子に座ると航志朗は音を立てて手を合わせて嬉しそうに頬をゆるめて言った。

 「安寿、ありがとう。いただきます」

 鶏胸肉のトマトスープだ。午前中に近所のスーパーマーケットに一人で出かけて、ショッピングカートを押しながら安寿はあれこれ昼食のメニューを考えた。ふと二年前にけがをした時に咲がつくってくれた滋養にあふれたスープの味を思い出した。おそらく咲のスープのベースは本格的に肉と香味野菜から出汁を取ったブイヨンだ。時間がないので仕方なく安寿は市販のコンソメを使ったが、トマトは新鮮な生野菜を入れた。安寿はスープを口に運びながら上目遣いで航志朗を心配そうに見つめた。黙々と航志朗は食べている。

 (本当においしいと思ってくれているといいけど。私、料理も大したものつくれないし)

 思わず安寿は肩を上げてため息をついた。

 「航志朗さん。あの、お口に合いますか?」

 自信がなくていつも安寿はそう尋ねてしまう。

 「うん。とてもおいしいよ、安寿。もっと食べたいから、おかわりしてもいいかな」と、いつも航志朗は答える。

 (彼は私に気を遣ってそう言ってくれるんだ)

 心から申しわけなく思って安寿はうつむいた。

 食事が済むと航志朗は安寿を引っぱってソファに連れて行った。すぐに抱きしめられてキスされる。安寿は赤くなって言った。

 「私、後片づけをしないと」

 だが、航志朗はやめない。何回も音を立てて安寿の唇に口づけながら、ふいに航志朗が尋ねた。

 「安寿、『人間の三大欲求』って、なんだかわかる?」

 「はい。一年生の時に般教(ぱんきょう)の『心理学概論』で習いました。ええと、生理的欲求、安全欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求のことですね」

 航志朗と唇を重ねて頭のなかが朦朧となりながらも安寿はなんとか答えたが、何かが間違っているような気がする。
 
 (あれ? 私、三つじゃなくて、五つも言っちゃった)

 腑に落ちない様子で航志朗が尋ねた。

 「安寿。『ぱんきょう』って、なんのことだ?」

 「『一般教養科目』のことですよ。大学の一、二年生の時に履修する」

 「ああ、そういうことか。今、君が言ったのは、マズローの『欲求5段階説』のことだろ。そうじゃなくて単純に、睡眠欲、食欲、それから……、なんだと思う?」

 頬を赤らめた安寿は下を向いて言った。

 「……せ、性欲、ですか」

 それは聞きづらいほどの小声だった。

 くすくす笑いながら安寿をきつく抱きしめて、航志朗は愉しそうに言った。

 「正解(コレクト)! やっぱり天才だな、君は」

 「もうっ、私のどこが天才なんですか!」

 安寿は仏頂面をしてから、ぷうとふくれた。

 「また可愛い顔をして。……たまらないな」

 航志朗は安寿のふくらんだ両頬を両手でそっと押した。そして、そのまま安寿をソファに押し倒した。

 「二つの欲求はじゅうぶん満たされたから、これから三つ目の欲求を一緒に満たそうか、安寿?」

 安寿は文句を言おうとしたが、その前に口を航志朗の唇でふさがれた。ふたりはひとしきり抱き合ってキスすると、いきなり航志朗は安寿を抱き上げてベッドルームへの階段を上った。

 「こ、航志朗さん、重くないですか!」

 怖くなって安寿は航志朗にしがみついた。

 「ぜんぜん。君は天使のように軽いよ。いや、重いな。……かなり」

 また安寿はふくれた。

 航志朗はベッドの上に安寿を降ろすとシャツのボタンを外した。航志朗の素肌が見えて、安寿は胸をどきっとさせた。やおら航志朗はヘッドボードに手を伸ばすと、独特なブルーカラーの小さなショッピングバッグを取った。そして、中から同じ色のボックスを取り出して無造作に開けた。ボックスには、ハートの形をしたチャームがついた繊細なデザインのブレスレットが入っていた。チャームにはきらきら輝くダイヤモンドがあしらわれている。航志朗は安寿の左手首にブレスレットををつけた。そのひんやりとした感触に急に我に返った安寿があわてて言った。

 「航志朗さん! また私なんかにこんな高価なプレゼントを」

 航志朗は安寿の左腕を握り手首にキスして言った。

 「気に入ってくれた? チャンギ空港のショップで三分で買ったんだ。待ち構えていた搭乗ゲートのグランドスタッフにかなり嫌な顔されたけどな。出発時刻の十分前ぎりぎりだったから」

 航志朗は安寿を抱きしめた。

 「結婚記念日らしくていいだろ、安寿?」

 そう甘くささやくと、航志朗は安寿の服をゆっくりと脱がし始めた。安寿は航志朗の手を抑えて叫ぶように言った。

 「私、あの、お風呂に入ってきます!」

 強引に航志朗は安寿をベッドに押し倒して言った。

 「だめだ。もう俺は我慢できない、安寿」

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