今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
安寿は深いため息をついた。シャワーを浴びて着替えた安寿は、エプロンをオーガニックコットンのワンピースの上につけた。安寿はダイニングテーブルの上に置いたままだった食器を洗ってから、夕食をつくり始めた。長い黒髪はお団子ヘアにまとめている。まだ航志朗はベッドで眠っているようだ。ずっと身体の奥がほてって熱い。
(もう、航志朗さんたら……)
安寿は顔を赤らめながら混ぜ合わせた調味料を入れてフライパンを振った。安寿は鰆の照り焼きをつくっている。ほうれん草のおひたしと筑前煮もつくった。そして、チョコレートケーキの生地をあらかじめ予熱しておいたオーブンレンジに入れてスタートボタンを押した。午後七時を過ぎたが、まだ航志朗は下りてこない。
安寿は暗くなった窓の外を眺めてから、ブックシェルフの真鍮の取っ手を握って扉を開けた。扉には淡くグレイッシュに揺らいだアンティークガラスがはめこまれている。安寿はガラスに映った自分の顔を見て、遠い昔ここに映っていたはずの航志朗の祖父母と曾祖父の姿を想像した。中からバウハウスの建築デザインの専門書を選んで、安寿はソファに座ってページをめくった。おそらくドイツ語で書かれた洋書だ。内容はさっぱりわからないが、そのモダンなデザインに見入った。
ブックシェルフのかたすみに愛のジュエリーボックスが置かれている。一週間前に安寿が航志朗に頼んだのだ。
「母のジュエリーボックスを岸家の自室に持ち帰ることはできません。だって、これを見ると、どうしても悲しい気持ちになってしまうから」
黙ってうなずいて、航志朗は承知してくれた。
航志朗が二階から下りて来た。航志朗は羽織ったシャツのボタンを留めていない。先程の航志朗の行為を思い出して恥ずかしくなった安寿は目をそらした。航志朗は立ち止まってキッチンを見て言った。
「いい香りがするな。チョコレートケーキを焼いているのか」
下を向いたままで安寿はうなずいた。目を細めた航志朗はかがんで安寿にキスすると、「シャワーを浴びてくる」と言って出て行った。その後ろ姿はやはりどこか消耗しきっている。
(ものすごく疲れているのに、あんなことをして)
安寿は赤くなった頬に手を置いてため息をついた。
静かにふたりは夕食をとった。航志朗は穏やかな表情を浮かべて、安寿を見つめている。安寿はまた料理の出来具合の心配をしてしまうが、今回は何も訊かずに微笑み返した。
安寿は冷ましておいたチョコレートケーキにイチゴを並べてから粉糖をふりかけて、中心に長いろうそくを二本と、その周りに短いろうそくを八本立てた。そして、ケーキをダイニングテーブルの前に座った航志朗の目の前に運ぶと、ライターでろうそくに火を灯してリビングルームのライトを消した。暗がりの中で温かく灯るろうそくのともしびを前に、安寿は航志朗を後ろから抱きしめた。微笑みを浮かべた航志朗は安寿の手を愛おしそうに握った。
恥ずかしそうに小声で安寿はハッピーバースデーソングを歌い出した。本当に不思議な響きを持つ歌声だ。歌い終わると安寿は言った。
「航志朗さん。何かお願いごとを心のなかで唱えてから、ろうそくの火を吹き消してくださいね」
「わかった。でも、照れくさいな。こういうことをしてもらうのって、子どもの時以来だから」
「ごめんなさい、子どもっぽいですね」
「そんなことないよ、安寿。嬉しいよ、とても」
ろうそくの炎を映して、航志朗の琥珀色の瞳がゆらゆらとまたたいた。
航志朗は安寿の目の前で目を閉じた。彼はどんな願いごとを唱えているのだろう、どうかその願いごとがかないますようにと安寿は心から祈った。
航志朗の願いごとは、ただ一つだけだった。
(これからも、ずっと、ずっと、安寿と一緒にいられますように……)
岸家の裏の森やデュボアの手元にある安寿の絵のことはすっかり忘れていた。
目を開けた航志朗は、安寿の隣でろうそくをひと息で吹き消した。ふたりは微笑み合って唇を重ねた。安寿はフォークを持ってチョコレートケーキを航志朗の口にかいがいしく運んだ。航志朗は口の中から身体じゅうへ甘くとろけながら確信を持った。
(俺たちは愛し合っている。……心から愛し合っている)
「私、食事の後片づけをするので、先にベッドに行って休んでくださいね」と安寿が言った。
「いや、一緒に片づけよう」と航志朗が提案したが、安寿は聞き入れなかった。
ずっと胸の内で航志朗は迷っていた。今すぐにでも安寿に真実を話すべきなのか。話すとしたら何から打ち明ければよいのか。その結果、安寿との関係がどう変化してしまうのかについて考えると、航志朗は恐怖におののいた。最悪の結果しか予測できなかったからだ。きっと間違いなく安寿は自分の前から去ってしまうだろう、永遠に。航志朗はベッドに座って頭を抱えた。
(それに、さっき俺は彼女にずいぶんと身勝手なことをしてしまった。自分の恐怖心を拭い去るために)
(もう、航志朗さんたら……)
安寿は顔を赤らめながら混ぜ合わせた調味料を入れてフライパンを振った。安寿は鰆の照り焼きをつくっている。ほうれん草のおひたしと筑前煮もつくった。そして、チョコレートケーキの生地をあらかじめ予熱しておいたオーブンレンジに入れてスタートボタンを押した。午後七時を過ぎたが、まだ航志朗は下りてこない。
安寿は暗くなった窓の外を眺めてから、ブックシェルフの真鍮の取っ手を握って扉を開けた。扉には淡くグレイッシュに揺らいだアンティークガラスがはめこまれている。安寿はガラスに映った自分の顔を見て、遠い昔ここに映っていたはずの航志朗の祖父母と曾祖父の姿を想像した。中からバウハウスの建築デザインの専門書を選んで、安寿はソファに座ってページをめくった。おそらくドイツ語で書かれた洋書だ。内容はさっぱりわからないが、そのモダンなデザインに見入った。
ブックシェルフのかたすみに愛のジュエリーボックスが置かれている。一週間前に安寿が航志朗に頼んだのだ。
「母のジュエリーボックスを岸家の自室に持ち帰ることはできません。だって、これを見ると、どうしても悲しい気持ちになってしまうから」
黙ってうなずいて、航志朗は承知してくれた。
航志朗が二階から下りて来た。航志朗は羽織ったシャツのボタンを留めていない。先程の航志朗の行為を思い出して恥ずかしくなった安寿は目をそらした。航志朗は立ち止まってキッチンを見て言った。
「いい香りがするな。チョコレートケーキを焼いているのか」
下を向いたままで安寿はうなずいた。目を細めた航志朗はかがんで安寿にキスすると、「シャワーを浴びてくる」と言って出て行った。その後ろ姿はやはりどこか消耗しきっている。
(ものすごく疲れているのに、あんなことをして)
安寿は赤くなった頬に手を置いてため息をついた。
静かにふたりは夕食をとった。航志朗は穏やかな表情を浮かべて、安寿を見つめている。安寿はまた料理の出来具合の心配をしてしまうが、今回は何も訊かずに微笑み返した。
安寿は冷ましておいたチョコレートケーキにイチゴを並べてから粉糖をふりかけて、中心に長いろうそくを二本と、その周りに短いろうそくを八本立てた。そして、ケーキをダイニングテーブルの前に座った航志朗の目の前に運ぶと、ライターでろうそくに火を灯してリビングルームのライトを消した。暗がりの中で温かく灯るろうそくのともしびを前に、安寿は航志朗を後ろから抱きしめた。微笑みを浮かべた航志朗は安寿の手を愛おしそうに握った。
恥ずかしそうに小声で安寿はハッピーバースデーソングを歌い出した。本当に不思議な響きを持つ歌声だ。歌い終わると安寿は言った。
「航志朗さん。何かお願いごとを心のなかで唱えてから、ろうそくの火を吹き消してくださいね」
「わかった。でも、照れくさいな。こういうことをしてもらうのって、子どもの時以来だから」
「ごめんなさい、子どもっぽいですね」
「そんなことないよ、安寿。嬉しいよ、とても」
ろうそくの炎を映して、航志朗の琥珀色の瞳がゆらゆらとまたたいた。
航志朗は安寿の目の前で目を閉じた。彼はどんな願いごとを唱えているのだろう、どうかその願いごとがかないますようにと安寿は心から祈った。
航志朗の願いごとは、ただ一つだけだった。
(これからも、ずっと、ずっと、安寿と一緒にいられますように……)
岸家の裏の森やデュボアの手元にある安寿の絵のことはすっかり忘れていた。
目を開けた航志朗は、安寿の隣でろうそくをひと息で吹き消した。ふたりは微笑み合って唇を重ねた。安寿はフォークを持ってチョコレートケーキを航志朗の口にかいがいしく運んだ。航志朗は口の中から身体じゅうへ甘くとろけながら確信を持った。
(俺たちは愛し合っている。……心から愛し合っている)
「私、食事の後片づけをするので、先にベッドに行って休んでくださいね」と安寿が言った。
「いや、一緒に片づけよう」と航志朗が提案したが、安寿は聞き入れなかった。
ずっと胸の内で航志朗は迷っていた。今すぐにでも安寿に真実を話すべきなのか。話すとしたら何から打ち明ければよいのか。その結果、安寿との関係がどう変化してしまうのかについて考えると、航志朗は恐怖におののいた。最悪の結果しか予測できなかったからだ。きっと間違いなく安寿は自分の前から去ってしまうだろう、永遠に。航志朗はベッドに座って頭を抱えた。
(それに、さっき俺は彼女にずいぶんと身勝手なことをしてしまった。自分の恐怖心を拭い去るために)